山県有朋から考える

 次回の読書会の課題が『山県有朋 明治国家と権力』(中公新書)。すでに注文をしたんだけど、まだ手元に届いていないので、あらかじめ予習をしておこうと思い立った。

 いろいろ山県に関して書かれている本はあった。でも、やっぱり司馬遼太郎の「山県論」をいくつか思い出し、課題図書の準備としようっと。

 まずは『「明治」という国家』である。ここで山県は「廃藩置県」の必要性を説きに西郷隆盛邸を訪問したときのことが書かれている。

 司馬さん、ここで山県の顔を「拳を握りしめたような顔」と表現している。どんな顔やねん(笑)。さらに《山県は、話の面白い人間ではありません。》と言う。確かに晩年の拳を握りしめたような山県の写真を見ると、「この人の話は聴きたくないな」と思わせる。

街道をゆく』にもあちこちに山県は登場するのだが、ここでは41巻の『北のまほろば』の一節を引く。

《明治の長州人で、松下村塾の出でないと肩身がせまいような事情があったらしい。たとえば、山県有朋などは、松下村塾にいたかどうかも疑わしいながら――三、四カ月在籍したともいう――晩年、揮毫を頼まれるとときに松陰の言葉を書き、「門下生有朋」と署名した。一種の誇示だった。》

 ううむ、現在で学歴を詐称するどこぞの知事みたいな感じかなぁ(笑)。

 この他、山県は『世に棲む日々』にも『坂の上の雲』にも登場する。とくに後者で山県は「才能・識見は人並みだが官僚統制に長け、巧みな論功人事を通じて強大な長州閥を作り上げ、政官界を操った陰険な策謀家」になっている。

 これは司馬さんが山県に対してあまり好意を持っていなかった証拠であり、ワシャもその影響から山県の評価は高くない。

 とはいえ、日英同盟に果たした山県の仕事は、その後の日露戦争に大きな役割を担ったわけで、山県だからすべてが不出来だったということとは違う。

 是と非、トータルとして好きか嫌いかというと「好きではない」というくらいか。

 

 さて、山県について本を漁っていたら、『司馬遼太郎対談集 歴史を考える』(文春文庫)の中に「日本宰相論」という劇作家の山崎正和氏との対談を見つけた。あえて「宰相」の定義を曖昧にして源頼朝から田中角栄までを語っている。その中に山県有朋もあったのだ。この宰相論が面白かった。

 まずは山県のことに触れたい。司馬さんは言う。

《(山県は)官僚国家をつくり軍をつくって育てていくなどと考え(中略)その二つだけは死ぬまで握って話さなかった。これは陰険な明治です。》

 こう前置きをしつつ《暗い山県のトンネル》と批評する。司馬さん、山県に対し厳しいですね。

 むしろ「文藝春秋」の2010~11年最新版12月臨時増刊号『「坂の上の雲」日本人の奇跡』に寄稿したJR東海の葛西会長の文章のほうが山県には優しい。

「自分は皇室と国家の他、子孫のことなどは念頭に無い」

 という山県の言葉を引き、滅私奉公の人だったと言われる。確かにそういうところもあるだろうが、いくぶん贔屓に過ぎるかなぁ。

 

 山県の話は取り合えず措く。「日本宰相論」のことである。これ20年ぶりくらいで、今、読み直したんだけど、すんげー(凄く)ぐさぐさ来たんですけど。

 まさに今の岸田政権のことを予言していたかのような対談になっている。山県が作った「官僚国家」が山県の死後(大正11年以降)に台頭して、わずか20年で日本国を壊してしまった。今も岸田政権が官僚の中の官僚である「財務省」に操られている。

 さらに山県の後に出てくる原敬。彼は岸田と同様に総理大臣になりたくて仕方がなかった。司馬さんはこう言っている。

原敬は、総理大臣になるべく古くから支度をしていましたね。非常に綿密な手を打って、いまの政党政治家がやっていることを全部やった。》

 というより、今の政治家が原の手法を模倣したと言ったほうが正しい。

原敬の金の撒き方というのは、いまの元祖ですからね。原敬以降だな、日本が下司国家になったのは。》

 司馬さん、厳しい。そしてマスコミについても苦言を呈する。

《新聞というのは日本では非常に大きな政治的役割をはたしてきているんですけれども、しかし、マイナスのほうがはるかに大きかった》

 はからずも昭和48年(51年前)に書かれた「日本宰相論」が岸田政権、自民党の腑抜けさを指摘していたとは・・・。日本の政治というものは、まったく進化していないというか、先祖がえりをしてしまったというか、山県や原の悪い部分だけを継承しているとは(とほほ)。