幕末史

 昨日、某所で読書会。課題図書は、半藤一利『幕末史』(新潮社)である。

 ざっと全般を俯瞰すると、嘉永6年のペリー来航から、明治11年大久保利通暗殺事件までの26年が、通史として書かれてある。通常、幕末というと嘉永6年から明治元年までの15年を言うものと認識していたから、半藤氏、やや拡大解釈をしている。半藤氏の最終章の文章を引く。

《木戸、西郷、大久保とほぼ一年の間につづいて亡くなって、ほんとうに幕末の動乱の立役者はみんないなくなってしまいました。》

 ペリーが浦賀に入港した時、それぞれの立役者たちは、木戸20、大久保23、西郷26、坂本龍馬18、高杉晋作15、吉田松陰23、佐久間象山42、横井小楠44、大村益次郎29と若かった。高杉なんかわずか15歳でしかない。15歳から29歳までの、わずか14年を駆け抜けて、そして天に召されてしまう。なんと鮮やかな人生だろうか。

 ワシャは『幕末維新全殉難者名簿』(新人物往来社)全4巻をもっているけれど、これには高杉らを含めて18,686人の若者の氏名が掲載されている。これだけの有意の若者たちの命の上に明治政府は成立した。

 とはいえ、18,686人である。ある国で革命が起きた場合、この人数では済まされない。この倍、三倍、四倍という命が犠牲になって革命は成立する。そういった意味では、やはり明治維新は革命ではなく維新だったと確信できる。

『幕末史』を読むと、革命にしなかった上記の若者、思想家たちがいかに世界情勢を知っていて、的確な判断をしていったかが理解できる。戦後に、「革命」を叫んでいた左翼活動家や共産主義者たちがいかに不勉強で、自分たちの都合しか考えていなかった阿呆だということが、身に染みて感じられたのだった。

 半藤氏の最終章の文章を続けて引きたい。

《幕末の動乱の立役者はみんないなくなってしまいました。そして、残って国の政治・軍事をリードするのは山県有朋伊藤博文。まったく人の運命というものはわかりません。明治元年で山県は三十一歳、伊藤は二十八歳でしたから、十年たって四十一歳と三十八歳です。まだ若い二人がいつの間にかトップに立つことになるのですからね。》

 彼らはペリー来航の折、16歳と13歳、かたや奴の倅で、もう一方は足軽の倅でした。彼らが軍のトップ、そして首相まで登りつめるというのは、日本という国家の流動性をものがっているのではないでしょうか?

 それに比べて、今回のフニャチン内閣改造はいかばかりであろうか?目玉で入れた小渕、加藤、自見、土屋の女性役員・大臣は、みんなそれぞれの藩を継ぐ、お姫様ばかりをそろえてしまった。お姫様ばかりではない。お殿様も半分くらい混じっているよね。

 この国家の大乱の秋(とき)、こんな人事をやって悦に入っているようでは、無能のそしりを受けないわけにはいくまい。

 ペリー来航時、五人の賢明な藩主がいた。阿部正弘松平春嶽島津斉彬山内容堂伊達宗城らである。彼らは岸田の阿呆とは違って、世襲や身分にこだわらず、憂愁なる人材を登用していった。それがまさに維新へとつながったわけだ。岸田首相には逆立ちしてもできないだろう。

 

 さて、読書会も終盤に差し掛かって、山県、伊藤の元勲の評価について、メンバーの中で意見が分かれた。ワシャはそもそも三流の山県、伊藤を評価しない者である。もし、一流の木戸、大久保、西郷、坂本、高杉、吉田、大村などが生き延びていれば、おそらく山県、伊藤の出る幕はなかったのではないか。

 そう発言した時、メンバーの一人がこう反論した。

「政治というものは、理想を掲げるばかりの一流では回せない。人の顔色をうかがい、へらへらしながらも政治を回していく山県や伊藤のような人材こそが必要だ」

 木戸、大久保、西郷、坂本などの力量を高く評価する理想家のワシャと、合理的な現実論を掲げる2人の議論は平行線をたどったが、それでいいのだ。そういった議論で大いに盛り上がることこそが、読書会の醍醐味と言える。

 読書会後、駅前の居酒屋で軽く食事をとりながら、またまた続きの激論だったが、ワシャが病み上がりで「いくぶん迫力に欠けた」とメンバーから指摘された。いかんいかん、松平春嶽のように全力で相手を論破しないと、西三河の夜明けはまだまだかもしれない。

「チェスト―!」