偽善者の布施

 ひええええ~。昨日はめちゃくちゃ忙しかった。なんと、最寄りの役所に午前、午後と行って、諸々の用件で6か所ほどまわった。あ、その途中で知り合いのところに立ち寄って、X(旧ツイッター)のことを教えてもらっていたので、合計7か所になる。

 おっと、役所の玄関先で知り合いの議員と出くわして、そこで来月のアポイントを取ったので8件。昼時に駅前の公共施設に移動して、そこの館長と昼過ぎまで打ち合わせをしていたので9件か。Xは趣味だからいいけれど、残りはみんなボランティアでやっている。ボランティアと言うよりも「布施」に近い感覚だ。

 一般的に「布施」というと布施明のことではない(怒)。寺や僧侶に金品、食物などを施すことと思いがちだが、それは「布施」の中のごく一部であり、他人にやさしくすること、いたわりの言葉をかけること、他者を慮ることなども立派な「布施」なのである。

 ワシャの地元の人が「一緒に行ってくれませんか」と言ってきて同行したり、また別の人からある作家の顕彰について相談を受けたので、そのことについての情報収集に走っていたのだ。もちろんタダでね(苦笑)。

 ただね、禅宗の徒としては、これだけは心に刻んでおかなければならないことがある。それは「『布施』は、人のためにするものではなく、あくまでも自分自身のためにする行為である」ということなのである。そのための有形無形の見返りを求めてはいけないということが大原則なのである。

 日中、走り回っていたので、昨日の晩酌の美味しいことといったら。これでいいのだ。

 さて、今日も朝から忙しい。だから東京新聞の衣塑子のことなども書きたかったが、1点だけ朝日新聞から。

 1面の「折々のことば」から、フランス文学者の渡辺一夫の言を引きたい。

《自分は善人だから・・・・・・と思っている人くらい、何をしでかすか判りません》

 確かに衣塑子などは、自分を正義の味方とでも思っているんでしょうな。自分のことを「偽善者」だと思っているくらいが丁度いいと仏文学者は言っている。

「自分は善人だが、うわべだけは悪いやつを演じているのさ」と、己を善人だと思っている衣塑子系の連中が手に負えない。むしろ「自分は悪人だが、うわべだけは善人を装っているのさ」くらいのほうがまともなのである。

 だからワシャはワル(悪)シャワと名乗っている(笑)。

「折々のことば」の解説者の鷲田清一氏とは若干の解釈が違うけれども、鷲田氏が例示したダメな奴ら。

「上司に取り入り部下には辛く当たる」

「外ではにこにこして家族には暴君然となる」

「市民には聖人面し裏で利権を漁る」

 こんなのは偽善者、偽悪者という以前にクズだね。

「偉そうな上司には徹底的に逆らい、上司に遠慮して資料庫への近道である上司の前を通れなかったることを『どうぞどうぞ』と開放する」

「外ではギャグを飛ばし、家でもギャグを飛ばす」

「市民にはちょい悪オヤジを演じながら、利権なんて一度も見たことも聞いたこともない触ったこともない」

 そんな偽善者になりたいものだ。

 おっと、間もなく出かけなければいけない。それでは皆さん、また明日。