松陰象山(しょういんしょうざん)

 今日は難しい話はあとにして、なぜワルシャワの手元に『江戸の読書会』が3冊もあるのか?について解説をしよう(どーでもいいと思うけど)。

 先月の読書会で課題図書として決まった。すぐに入手をするために「全国書店ネットワークe‐hon」で検索をかけた。そしたらね、絶版になっていて注文ができなかった。

 仕方ないので、何軒かの古書店を回って探したのだが、ことごとく見つからない。最後の手段で、図書館へ行って文庫を借りたのだった。最初はそれほど気合が入っていなかった。昨日も書いたように「読書会受けを狙ったあざとい本」だと思っていたからね。

 借りてきて、読み進めるうちに「おや?」と思うようになり、そのうちに「これは!」と確信を持つようになった。そうなるとワシャの読書のやり方として、「おや?」と思うところには付箋をはり、「これは!」と感じるフレーズにはラインを引く。さらに本自体に思い付いたことを書き込みしなければ気が済まなくなる。

 しかし、あくまでも図書館で借りてきた公共物である。ここに線を引いたり、文字を書き込んだりするのはご法度だ。だから、ワシャは付箋をベタベタと貼ったんだけど、付箋だけだとよく判らなくなっちまうんですね。読んでいて、「これ前の章にも関連があったな」と閃いて、前の章にあったはずの類似フレーズを探すんだけど、付箋だらけでどれがどれやら・・・。

 ついに付箋だらけの文庫本を諦めて、単行本の『江戸の読書会』(平凡社選書)が図書館にあったので、それも借りてきて前の章の再読を始めた。付箋がない分、集中して読める(いったいどれだけ付箋を打ったんじゃ)。

 単行本のほうには、文庫本のまとめのような形で付箋が貼られた。おかげで多少は解りやすくなって、それで読書会に臨んだのだった。

 読書会が始まって早々に、メンバーの一人が「ほとんど読めなかった」と根を上げてしまった。文庫本を見れば付箋が数枚「はじめに」と「あとがき」のあたりに打ってあるだけ。

「今後も読まないの?」と尋ねると、「読まない」というから、「だったらワシャに売ってくれ」というと、500円で売ってくれた。そんなわけで一時ワシャの手元には『江戸の読書会』が3冊あったのだった。

 

「第3章 蘭学国学」「第4章 藩校と私塾」にかけては、江戸の儒学蘭学国学の江戸思想史を「会読(読書会)」という切り口から解説を施している。この章で、「なぜ日本がアジア諸国どころか欧米にもまさる国民力、能力・識字率の高さを誇っているのかが見えてくる。

昨日も書いたけれど、《科挙合格のための学問などは、暗記と文章を弄ぶ「記誦詞章」(『大学章句』序)の軽蔑すべき学問に過ぎなかった。》ということ。近世日本人の「利」を学問に求めない「会読」を核とした勉強法が「科挙制度」に勝っていたということなのである。「会読が中国にはない日本独特の読書方法」であった。

 赤穂浪士に引導を渡した荻生徂徠から始まって、井上蘭台、室鳩巣、伊藤仁斎子安宣邦、太宰春台、本居宣長平田篤胤大塩平八郎、広瀬淡窓、緒方洪庵佐久間象山吉田松陰などまでに連なる日本の俊英たちは、「暗記と文章」を弄ぶような科挙的学問をしてこなかった。

ときの権力者たちも、彼らに引きずられる格好で、会読を中心とする学問を起こし、全国津々浦々に藩校、私塾、寺子屋で身分を超越し、利を疎んじることで、科挙制度とかけ離れた高邁な思想を広めることができた。

 そしてここからが愚昧なワシャの気づきなのだが・・・。

大雑把に言うと、明治維新西郷隆盛高杉晋作坂本龍馬に代表される各藩の若き志士たちが成し遂げたもの、だから明治維新フランス革命と類似したものだと思っていた。要は、西郷も高杉も坂本も、大久保利通桂小五郎大村益次郎も、維新前夜に現れたその時だけの英雄だと認識していた。

それが違った。彼らは、荻生徂徠から始まる「会読」によって永い歳月をかけて培われたある意味でのエリートだったのだ。愚民がわけもわからず監獄に火をかけて、王族の首をはねるというような短絡的な反乱ではなかった。

伊藤博文山縣有朋にしても、現代人からすれば草莽の中から現れた元気な荒くれが、時代の流れにのって権力の座に登っていった・・・のではなかった。

百年、二百年という「会読」の歴史が人材を育て、国家的危機についに彼らを動かして、欧米の攻撃を凌いだのである。

見てみなさい。科挙制度の上にのうのうと胡坐をかいてきた大陸の帝国は、あっという間に欧米列強に蝕まれてしまった。その後、世界の5大国になる日本とはまったく別の歴史を辿ることになる。

歴史はその時点時点で考えてはいけないことを、この本は改めて教えてくれた。もともとそうは思っていたんだけど、志士たちのルーツが荻生徂徠までさかのぼるとは、思ってもみなかった。しかしそう思い当たると、維新の回天を成し遂げた若者たちの優秀さが際立ってくる。彼らには科挙受験者が目論んでいた「利」とか「地位」という下劣なものは端からなかったのである。だからこその維新の回天であり、言路洞開を実践した英邁な藩主たちの支援も大きかった。

 さらに付け加えれば、「会読」から派生した相互コミュニケーションが重要であったろう。科挙はあくまでも自分だけのことである。四書五経を丸暗記し、他者に先んじることこそが権力や財産を得る最重要な方法だった。しかし、「会読」による学習は相手があることが必然で、だから松陰も長州から江戸に出て、名士のもとを尋ね歩き、さらには東北、関西と「遊歴」して、各地にいる大家と面会、議論を重ねた。これが国家を守るベースとなったことは、維新後の明治政府が列強の圧力を跳ね返していった歴史を見れば一目瞭然だ。

 いかんいかん、今日もまた長くなってしまった。とはいえ、まだ9時前だけど、これ以上書いていると午前中の予定に影響が出るのでここらで一旦締めておこう。

 それにしても2500字程度が、あっという間に書けてしまうほど、影響の強い一冊だった。まだまだ思念の中に記録すべきこと、言っておくことが残っている。

 松陰も象山も「会読」によって育てられた秀才だということでタイトルにした。