「アイヌ」という差別 その1

 日曜日の夕方の報道バラエティ「バンキシャ!」で「アイヌの猟 復活のために」という特集があった。普段は見ないんだけど、「アイヌ」というワードに引っ張られてテレビの前に座った。

 特集ののっけに出てきたのが「アイヌ文化を伝承するための取り組み」とか「アイヌ差別を乗り越えて」という言葉だった。

 まずここで最初の「え?」。ワシャは北海道に友人・知人がけっこういる。行政関係者も多い。しかし、彼らから「アイヌ差別」なんてことは聞いたことがなかった。脚本家の倉本聰さんを始めとして在北海道の方の本を何冊も読んでいる。さらに、北海道に何度か足を運んで、居酒屋なんぞに紛れ込んで現実の市民生活にも触れてきた。もう一つ言えば、北海道で北のサヨクから迫害を受けても頑張っている元北海道議の小野寺まさる氏の発信などもキャッチして「アイヌ問題」については客観的に俯瞰してみているつもりだ。これらを総合して考えると、今、喧伝されている「アイヌ差別」は、ほぼサヨクの妄想だと確信している。

 ワシャの考え方は取り合えず脇に置いて番組を見た。

 この特集の主人公は40歳の猟師である。この人は言う。

「幼いころ、ルーツを知らなかった。小さいころなんで、アイヌのアも知らなかった」

 そうだよね。40歳というとおおむね昭和58年くらいの生まれで、その頃には、アイヌ文化というのは歴史の中に組み込まれていたのではないか。一部に観光アイヌというものになっていて、我が家にもシャケを咥えた木彫りの熊があったくらいだからね。

猟師の発言を続ける。

「じいちゃん、ばあちゃんとか親の世代、やっぱり差別がまだまだ激しかった時代でねぇ。だからアイヌ文化のことなんて教わったこともなかった」

 猟師が40歳ということは、親の世代は昭和30年代か。その親(じいちゃん、ばあちゃん)は昭和一桁、あるいは大正生まれで、欧米との戦争をしてきた世代である。その時期に、「アイヌ差別」なんてしている暇はなかったのが現実である。

「自分がアイヌだと知ったのは小学校高学年になってからだった」

 そうですか。

「高校時代には、否応なく意識させられる出来事もあった。バス停で待っていたら、見ず知らずの女子高校生が何人かいて、オレを見ながら『あ、アイヌだ、きもっ』という言葉を聞こえるように言われた」

 見ず知らずの女子が、なんでバス停で会った男子のルーツを知っているのかが疑問だが、それほどの「差別」とは思えない。

 ワシャだって高校時代時代、実業高校の生徒に「あ、ワルシャワだ、こわっ」という言葉を残して、ダッシュで逃げられたこともある。あれはワシャが「差別」されていたのか?

 猟師の話を続ける。

「自分のルーツに悩んだ時期もあったが、転機は20代のころにおとずれた。働きに出ていた都会から地元に戻った時」

 20代ということは、平成の半ば頃ということですよね。都会で働いていて「アイヌ差別」なんてありましたか?絶対になかったですよね。

「地元に戻った時、アイヌ独自の狩猟文化を知り魅了された。しかし伝統の猟を行うにも壁があった。例えばこの弓矢」

 画面に白っぽい矢尻を見せる。

「ここは鹿野足の骨を使っているんです。毒を塗ってね。本当なら伝統的な狩猟法ができればいいんですけど」

 笑ってしまった。令和の時代に毒矢で猟をするなよ。これについて番組のナレーションがこう付け加えた。

「伝統的な狩猟は明治政府によって禁止された。本土から来た和人によって、言葉や文化を否定される中で、弓矢と毒を使った猟は野蛮、危険とされたのだ。猟をしていた山も一方的に取り上げられた」

 おいおい、当たり前だろう。毒物を国民が私的に所有することは危険だし、すでに猟をする銃も出回り始めていた。弓矢の猟よりも猟銃を使った狩猟のほうが効率がいいに決まっている。

「山も一方的に取り上げられた」って、それってもともと狩猟民の所有物ではなかったよね。あくまで公有地に無断で入らせてもらっていただけのこと。差別でもなんでもない。

 いやぁ~、長くなっています。まだ半分もいっていないけど、ちょいと今から豊田に所用で出かけますんで、残りは明日の朝ということで、失礼します。