2日前の日記の最後に坂本龍馬の言を引いた。
「生きるも死ぬも物の一表現に過ぎぬ。いちいちかかずらわって おれるものか。人間、事を成すか成さぬかだけを考えておればよい」
これは、ワシャのメモの中にあった龍馬の言葉なんだけど、それが「司馬遼太郎」という項の中に書いてあったので、もしかしたら『竜馬がゆく』の中の司馬さんの創作かなぁ・・・とも考え、では、龍馬の原文にあたってみようと以下の書物を書庫から引っ張り出してきた。
宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)
そうしたらね、やっぱ、坂本龍馬はおもしろいんですな。久々に龍馬にどっぷりと浸かりましたぞ。そして、タイトルにした「姦吏の夷人と内通いたし候ものニて候」を書いた手紙を見つけた。これがまたうれしいことに、出されたのが文久3年6月29日で、土佐にいる姉の乙女宛てのものである。ちょっとだけワルシャワの作為がありますがね(笑)、見つけたのは一昨日なんだけど、1日書くのを待ちました。ちょうど書かれてからちょうど160年に持ってきたくてね。でも、見つけたのは偶然なんですよ。
さて、手紙のほうに入りたい。
タイトルは「クソ役人が、外国人と内通しているということです」と言っている。この前段で、長州を攻めた異国船を、江戸で修繕をして、また長州攻めに使わせたことなどを指摘し、江戸政府の閣僚、官僚どもを「姦吏」と軽蔑している。
なんでワシャがここに引っかかったかというと、LGBT法の成立について、バイデンやエマニュエル駐日大使に対する配慮はするのに、国民の意向は蔑ろにして強行採決をしたこと。あるいは韓国のホワイト国復帰を早々に決めてしまったこと。支那に対しての、河野洋平やら沖縄県知事らの朝貢外交を止められないことなどへの日本政府の不甲斐なさが、龍馬のいう「姦吏」にオーバーラップしたのである。
この後ろに続く龍馬の文章が名文で、おそらく皆さんもどこかで聞いたことのあるセリフだと思う。
「姦吏を一事に軍(いくさ)いたし打殺(うちころし)、日本を今一度せんたくいたし申候事にいたすべくとの神願ニて候」
読めばそのままで「不甲斐ない役人どもを一挙に戦(いくさ)で打ち殺し、日本を今一度洗濯いたしますと神様に誓いました」ということで、かなり過激な内容と言っていい。
この手紙の時、年表的に言えば、前年に坂下門外の変、将軍家茂と皇女和宮の婚儀、生麦事件、高杉晋作の英国公使館襲撃。年が改まって、京都には攘夷の風が吹きまくっている。2月には、京都守護職の松平容保が夜中巡察の制を設け、3月に、近藤勇ら新撰組のメンバーが入京し、京都守護職に属している。6月に高杉晋作が奇兵隊を編成し、薩英戦争も勃発している。
龍馬はというと、勝海舟の舎弟として、活発に動いている。1月以降、京都で勝門下生を積極的に集め、4月には神戸海軍操練所開設が決定している。5月には越前、6月にはまた京都、7月には再び越前、そこから江戸に出ている。9月には勝とともに大坂へ。10月には神戸海軍操練所の塾頭となり、神戸、江戸間を船で往復している。
馬車馬のような時を過ごしている龍馬だが、そんな中でも徳川政権のだらしない外交政策には、強い憤りを感じていたことが読み取れる。
260年の太平に、時の徳川政権は完全に呆けており、欧米列強の前になすすべもなかった。しかし、その呆けた政権に対してノーを突き付けたのが、松陰であり、象山であり、小南であった。そして彼らに続く攘夷の志士たちであった。もちろん政権側にも賢明な人物はいて、龍馬の師である勝海舟も新しい日本をすでにビジョンとして持っていた。
ひるがえって、龍馬の時代から160年、戦後の太平に浸りきって78年、今の岸田政権、自民党政権は完全に呆けている。
令和の坂本龍馬はどこにいるんでしょうね。