Cet age est sans pitie

 タイトルはフランス語で、棚にあった仏和辞典で調べるとCet(この) age(時期・時代) est(~である) sans pitie(情け容赦なく)なので、直訳すると「この時期は情け容赦がない」となる。ネットで翻訳したら「この時代は無情である」と出たので、それほどの差はなかった。この話はしばらくおいておく。

 

 今朝の朝日新聞1面に鷲田清一氏の「折々のことば」というコーナーがあって、このコーナーは天声人語よりおもしろい。

 今日の「ことば」は数学者の岡潔さんの「道義の根本は人の悲しみがわかるということにある」を出している。これは岡先生の著作『春宵十話』(角川ソフィア文庫)の中、「私の受けた道義教育」というエッセイにある言葉である。以下は岡先生のエッセイから。

 

 岡先生は「日露戦争以降、敗戦後の大混乱の時代まで」と前置きをされ、《それでもどうにか社会の秩序は保たれて来た。この秩序を保ったのは何か。それは道義心にほかならない。》と言われる。

 まさにおっしゃるとおり。道義心が日本社会の安寧を築いてきた。

 ちょっと脇道に逸れるけれど、昨今の徒党を組んで強盗する輩が増殖している。今朝のテレビニュースでも、午後8時に原宿かどこかのアクセサリー店を襲撃した50代の男たちが捕まったそうだ。午後8時って、まだあのあたりは人通りが多いですよね。それでも強盗をやっちまうんだから、このバカどもの道義心・・・「人の行う正しい道」を完璧に踏み外してしまったんですね。こんなのが最近増えてきている。これに対して岡先生は言われる。

《そこで、義務教育は何をしなければならないかとなると、これは道義的センスをつけることの一語につきるのではあるまいか。》

 このところの外道どもの強盗殺人事件の頻発などは、明確に学校教育での道徳を疎かにしてきた揺り返しだと思う。岡先生、昭和44年にこの警告を発している。しかしその後の日本の教育は日教組日本学術会議の暗躍で、岡先生の示された方向とは、まさに真逆に進んで、今の悲惨な状況を生み出してしまった。

 岡先生は数え年5つの時に「道義教育」を祖父から受けている。

《一口にいえば「ひとを先にして自分をあとにせよ」という教育だった。(中略)これひとつだけをしつけられたように思う。》

 素晴らしいお祖父さんだった。さらにその祖父のエピソードに感動させられるが、それは『春宵十話』で出会ってくだされ。

 さて、岡先生、エッセイの結びを「折々のことば」が引いた「道義の根本は人の悲しみがわかるということにある」から書きはじめる。先生は言われる。

《人が喜ぶからこうしなさいとは教えられるが、人が悲しむからこうしてはいけないという教え方はできない。本当はこの教え方が徹底的なのだけれども。》

 国家の根幹は「教育」である。そんなことはずっと判ってきた日本人なのだが、このところの文部科学省支那共産党に占められてしまった。とんでもないのが事務次官をやっていたでしょ(怒)。この部分を岡先生の言われるように変えていかなければ日本の将来は暗い。

 ここで岡先生、冒頭のフランスのことわざを持ってくる。

「Cet age est sans pitie」

 先生はこれを「まだもののあわれがわかる年頃ではない」と訳し、「もののあわれがわかる年頃」(20歳くらい)までに道義心の仕上げをやっておくべきだと言われる。

 最後の言葉がこうだ。

《社会に正義的衝動がなくなれば、その社会はいくらでも腐敗する。これが一番恐ろしいことである。》

 令和の日本の腐敗はかなり進行している。子供の人権などどうでもいい。型にきっちりとはめて道義をしつけること、これがしっかりとできるかどうかが、明日の日本を決めていくものと考えている。

 大袈裟な話になっちまいましたけど、朝日新聞の1面を見て、そんなことを思ったのでした。