哲学のお勉強

 昨日、名古屋で哲学の勉強会があって、パセリ君と参加した。先生は、『五感の哲学』(ベスト新書)の加藤博子さんである。

 マクラは、前回講義の「ミニュチュア論」「人形論」の補遺。

 本論は《「老い」と多様化する幸福感の中で》と題して、「死」とは全く別の問題として「老い」を考えた。詳細は書けないけれど、ざっとすっ飛ばして言うと、古代から中世では「価値基準」というものは単純な構造をしていたが、それが近世以降に「日記の流行」というかたちで、自己を見つめる眼差しを自己で確認するゼネレーションが出現。そして「告白として日記を書く行為」は「ありのままに自己を書く・語る」という「嘘」と「自分との闘い」だと先生は言う。

 ややこしいんだけど、ここがワシャに響いた。「ほぉ」と思ったのだ。 ワシャは毎日、ここで日記を書いているのだが、先生の言うとおり、これは「ある種の告白」なわけで、だったら「ありのまま」に書いているかというと、そうでもない。凸凹商事の話なんかは、はてさて、あるのやら、ないのやら(笑)。

 でもね、記録的なところは割としっかり残しているつもりだし、感情的になっているところはストレートと言っていい。 多少のフィクションが入っても、自身の相克の中から抜け出して、日記を書くのならば、先生の言われた「そこに自分らしく生きること、自分の人生の充実が、幸福観につながっていく」に通じるのではないか。と思った。 ここで話を大本にもどせば、それも「老い」を彩る多様な幸福感のひとつになっているということ。つまり、ワシャはまだ老後ではないが、日記を書いて幸福感にひたっているんですね(なんのこっちゃ)。

 トリの話として、

《「哲学のノーベル賞柄谷行人がバーグルエン哲学・文化賞を受賞 アジア人初の快挙》

https://news.yahoo.co.jp/articles/94f9a948a1200829cadd1ff7ee824f244046b5fb

を祝して、柄谷行人氏の『日本近代文学の起源』(講談社学術文庫)と、『哲学の起源』(岩波現代文庫)の話をされた。後段の本で「イソノミヤ」の話題が出た。「イソノミヤ」って「磯の宮」ではなく、古代ギリシャ都市国家(ポリス)のイオニアで採用された統治形態のこと。いわゆる「ノールール」制度ということで、「デモクラシー(多数決支配)」に対抗する民主主義形態ですね。

 その話が気になって、ポリスの人口を確認したんだけど、アテネが3万人くらい、スパルタが1.5万人、その他が5000人くらいであろう。ということは、小さな市、大きめの町、大きめの町内会くらいをイメージすればいい・・・と書いてきて、ちょっとこれは簡単には書けないと自覚してきたので、一度関係文献や資料にあたってから書こうと思っている。このあたりは正直に言っている(真剣)。 勉強会の後の忘年会も久々だったので楽しかった。主催者のつくってくれたおでんは美味しかったですぞ。これも正直に。