陸羯南(くがかつなん)

 今月の読書会の課題図書が、陸羯南『近時政論考』(岩波文庫)である。メンバーからは悲鳴が上がるほど読み難い。ワシャ的にも岩波文庫の字のポイントが小さく、そういった意味でも難儀している(笑)。

 そもそも陸羯南ってメジャーではないですよね。高校の教科書には載っていない。少なくともワシャの持っている山川出版社のものにはありまへん。一般書である中央公論社の『日本の歴史』の21巻「近代国家の出発」の巻末索引にも陸羯南の名前はない。金玉均や川口困民党の副頭取などは索引に載っているのに関わらず、陸羯南はないんですね。ただし本文中には陸羯南が1カ所出てくる。「明治文化の担い手たち」の一覧表の中で「思想」の項に小さく。

 これだけみれば高等学校でまじめに日本史を勉強してきた人は知らないのが当たり前。その後、司馬遼太郎なんかにはまった人間が辛うじて名前を知っているくらいの存在ではなかろうか。

 

 司馬遼太郎陸羯南を絶賛している。「明治時代きっての逸材の一人」と言う。こんな人が歴史の教科書には出てこない。取りあえず備忘のためにどんな人物かをメモっておく。

明治中期の政論家。青森県出身。宮城師範学校に入学するが、明治9年、薩摩藩出身の校長があまりにバカなので退校し、東京の司法省法学校に入学する。しかし、またそこも退校し、帰省して青森新聞社に入社。13年、北海道にわたり紋別の製糖所に勤務。この頃、詩を書いて「都落ちの境遇と志を得ない悲運」を嘆いている。14年、再び上京し、フランス語の翻訳で生計を立てる。16年、正岡子規に出会い子規がなくなるまで面倒をみた。18年、内閣制度の創設にともなって内閣官報局編集課長となる。21年に辞任し、新聞「東京電報」を創刊。谷干城三宅雪嶺と協力関係にあった。22年「東京電報」廃刊、新聞「日本」を創刊。条約改正反対運動の急先鋒となる。そして24年に『近時政論考』を世に出している。

時代は、維新から22年が経過し、大日本帝国憲法が発布され、その前年には市制・町村制が公布している。富山を始めとして日本側で、米騒動が頻発しているが、第1回の議会が召集されたのもこの時期である。

14年前に「国会開設の勅諭」が下されて以降、政党の編成が進み、板垣退助自由党大隈重信立憲改進党、福地源一郎の立憲帝政党などが結成された。23年に伊藤博文ら維新の元勲たちの悲願であった議会が開設される。

まぁそんな時代を論評しているのが、『近時政論考』ということになるわけで、拾い読みをしたくらいだけど、明治の半ばに在野でこれだけの見識をもった言論人がいたということが驚きだった。またこれだけの論評を新聞で広く人々に知らしめることのできる大日本帝国の穏やかさに感動した。少なくとも現在の中国共産党に乗っ取られている支那よりもはるかに自由だった。

 

 おっと出勤の時間が来てしまった。朝から『国史大辞典』、『日本近代文学大辞典』、『日本思想史辞典』、『日本史年表』、『詳細日本史』などなど、ひっくり返しながらメモっているのだが、こんなことは朝からすることではなかった。