評論家で封建主義者の呉智英さんが「週刊ポスト」の連載で「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展」を「愚行」と呼び、ばっさりと斬り捨てている。
《私も本欄でこの愚行を強く批判しておいたし、今なおこの愚行の責任をめぐって議論が続いている。》
そして問題となっている「現代芸術」と称するものどもを「廃棄物となった累々たる実験作」と指摘し、「悪賢い奴がいて、これを横流しして社会問題になること自体を目的としている」と断じておられる。
比較として出されたのが「田中一村」
https://bijutsutecho.com/magazine/insight/18228/pictures/2
と、「高島野十郎」
http://machi.jpubb.com/press/2846976/
である。
彼らは旧弊な芸術界に挑戦して排除された。しかし後年にその芸術性、美しさ、クオリティなどが評価されて、排除した側の長老どもの凡作は消えていった。
一村の「アダン」の鮮烈さ、野十郎の「からすうり」のみずみずしさはいかばかりであろうか。呉さんはコラムの中で一村の「びょうぶ絵」を紹介しているが、これ、本物を見ると息を呑む。そもそも芸術というものは「古典」であろうと、「現代」であろうと、そういったもののことを言う。
英霊や米国旗を辱めるために造ったプロパガンダを、汚れたゴミの山をに仕込んだものを「芸術」とは呼ばない。やっぱり「ゴミ」でしかない。
呉さんは、これらの「ゴミ」を念頭に置かれてこう言われる。
《総じて現代芸術には、既存の芸術にケンカを売っているんだぞというあさはかな理屈しか見えない。理に落ちている》と。