「論語」が教科書としてふさわしいか?

 一昨日の読書会で、タイトルのような疑問が呈された。そこで少し考えてみたい。

論語」は儒教儒学のバイブルとしてとらえる前に、書物として極めてレベルの高い読み物である。2500年もの長い間、人々に愛読され東洋思想の根幹を成してきた。読まれてきた期間を考えれば、聖書、コーランの追随を許さず、読者数ですら(数えられないが)、聖書、コーランに匹敵するものである。

《「論語」が教科書として相応しいか?》ということであるが、そもそも、東洋の歴史において『論語』は教科書であった。日本でも戦前までは、まさに教科書たり得たわけであり、歴史の中で2500年にわたって子弟教育の根幹を成してきた。それを、ついこの間、欧米文化とコミンテルンに毒された占領軍の思惑により押し付けられた価値観によって『論語』が排除された。

 思索家で評論家の山本七平は言う。

《自称民主主義者が最も強い拒否反応を示した言葉は「女子と小人とは養いがたし」と「由らしむべし、知らしむべからず」であり、この二つは『論語』からの――まことに不正確ではあるが――引用だからである。》

 男女差別、身分差別、情報の独占などあってはならない民主主義、建前上、万国の労働者が平等でなければならない共産主義から見れば排除すべき思想なのだった。

 しかし、渋沢栄一は『論語講義』のなかでこう言っている。

《そもそも一国及び一家のよく治まると否とは、蓋し使用人の悦服すると否とにあり。一家の婢僕輯睦して主人の命に敬服するは、その主人の徳行、恵沢及び撫御よろしきを得るによる。》

 要するに、トップが徳行をもってメンバーを使いこなせば、近づけても不遜に至らず、遠ざけても恨んだりしない、ということで、君子のあり方を言っているのであって、男女差別、身分差別を顕在化させているものではない。

 また「由らしむべし、知らしむべからず」も、中国共産党のようにメディア統制をして「人民に情報を与えるな」という話ではなく、「リーダーが国民に対して、政策に従わせることはできるけれども、政策の中身、意義、目的などを理解させるというのは、なかなか難しいものだ」と言っているのであって、メディア統制などとは真逆の姿勢と言っていい。

 

 以上から『論語』は教科書にしても差し支えないと思う。ただし、評論家の呉智英さんは『論語』を「危険な毒物」と指摘する。その上でこう言っている。

渋沢栄一は、通俗的な『論語』入門書の著者や読者とちがって、『論語』が“危険な毒物”であることを知っていた。知っていた上で、それを飼い慣らせば、資本主義を支える論理となることに気づいたのだ。毒を薬に変えた者のみが、毒が毒である所以を知っていたのである。》

論語』は浅くつきあう分には、道徳本のようなものに見えて、どちらかというと薄あまい書物になる。しかし、本格的に読み解いていくと、思想的にもかなり危険なものになっていく。ただし、戦後の研究者程度の知識では、『論語』の危険性など片鱗も見ることはできない。ごくごくわずかな突出した思想家のみが、その毒に到達できる。

 だから、子供たちが普通に『論語』を読んで、その毒に中るようなことは皆無であるから、まったく問題はないと思う。毒が毒である所以を知ることのできるのは、一世紀に何人ほどでるだろうか、その程度のことである。

 それでも心配なら、渋沢栄一が毒を抜いた「渋沢論語」をテキストにすれば、さらにいいのではないか。

 

 とはいえ、微量の毒の存在を知っておくことも、人が生きていくうえでは大切なことだろう。そのあたりも含めて、『論語』を、しっかりとした『論語読み』によって教科書にして、講義をすることは重要である。

 

 ちなみにワシャは、呉智英さんの『論語講義』を、全巻を通して受けたものである。トータルで20数回に及んだが、これによって、まったく『論語』に対する意識が変ってしまった。孔子が、聖人としてではなく、一個の悩める好人物として浮かび上がってきたのである。

 おそらく子供たちにとって、孔子を知ること、『論語』に触れることは大きな人生の糧になると思う。

 

 こんなところでいかがでしょう、読書会メンバーのパヤパヤさん。