徹底的にトリエンナーレ

 おおお、ついに我らが呉智英さんが「週刊ポスト」で声を上げた。好評連載の「現実のバカ」で、《表現の不自由展と「当り屋」》と題した秀逸な痛快なエッセイが出た。「待ってました!」と大向こうから声を掛けたくなっちまいますぞ。呉さんの発言をまとめる。

慰安婦を象徴する「少女像」だが、これ、いつ表現が不自由になったのか。》そこいらじゅうに同じものがあって、《韓国大使館の玄関や会議室なら設置は自由である。》

そのとおりだ。表現する自由は山ほどある。

《こうした少女像のどこが「表現の不自由」なのか。津田大介ら破廉恥な運動家連中がわざわざここで表現の不自由を作り出したのだ。ありもしない交通事故を作り出す「当り屋」商売と同じである。》

 さすが呉夫子、「津田大介」と敬称を付けない。作家の百田尚樹さんやジャーナリストの有本香さんでも「氏」を付けているが、「文句があるなら言ってみろ」という呉さんの態度は頼もしい。

津田大介ら破廉恥な運動家連中」と断言した後に、呉さん、その博覧強記にものを言わせて、本当の「表現の不自由」を列記する。それらは、大村知事や津田大介氏が「表現の不自由」といっているものとは芸術性も、不自由さのスケールも、天と地のゴミほどの差があることを示す。これでは「破廉恥」な連中はぐうの音も出まい。

 呉さんはエッセイの結びでこう言っておられる。

《表現の不自由と戦ったことがない奴らが当り屋稼業をやっている。》

 まさに、そのとおりですね。

 

 さらに「破廉恥連」への糾弾は続く。発売されたばかりの月刊「Hanada」(飛鳥新社)、月刊「WiLL」(ワック出版局)でも大きく取り上げられている。

「Hanada」では有本香さんが《反日バイトテロ「あいちトリエンナーレ」》と題して厳しい論評をする。今回の騒動について《芸術監督に祭り上げられた津田氏と、間抜けな主催者・大村知事は、「こんな人たち」のフロントとして使われた、というのが事の真相だろう。》と指摘。「こんな人たち」というのは、共産党よりも極左に近い反天皇活動をする輩のことであり、それらの名前が堂々と出てきた段階でチェックができなかった愛知県の間抜けさはいかばかりであろうか。

 さらに作家の門田隆将さんは10ページにわたって論を展開する。論題は《「表現の不自由展」はヘイトそのものだ》である。

 門田さんは実際に8月3日に愛知県芸術文化センターを訪問している。そして「表現の不自由展」の作品を実際に見て、作品を見にきている客の動向も観察してきた。門田さんの指摘を要約する。

『「表現の不自由展」は写真撮影は許されているが、撮ったものは写真・動画に関わらずSNSへの投稿禁止となっている。この展示会は観る側にも「不自由」を強要する。そういう不自由さについて訴えるはずの展示なのに「自己矛盾」に気づかないところに主催者のレベルの低さがある』

『やはり反昭和天皇がモチーフだ。昭和天皇の肖像がバーナーで焼かれ、奇妙なバックミュージックが流される。工作者の昭和天皇へのヘイト(憎悪)がストレートに伝わってくる』

『私の脳裏に浮かんだのは「グロテスク」、「自己満足」、「真実の歴史など二の次」ということだった』

 ちなみに、作家の百田尚樹さんは「自己満足」を「自慰行為」と言っていた(笑)。

 門田さんは一章を割いて大村知事についても書いている。章題は《支離滅裂の大村知事》である。ここは長くなるが引いておく。

《「表現の自由」を標榜して展示をおこなっているのなら、どんなことがあっても脅迫や暴力に「負けてはならない」からだ。まして大村氏は愛知県知事だ。愛知県警を大動員してでも、「暴力には決して屈しない」姿勢を毅然と示さなければならない立場である。》

 ヘラヘラと地域の盆踊りや宴会を回っている場合ではなかった。暴力とは決然と闘う姿勢を示してこそのトップではないか。

《一方で私には「ああ、逃げたな」という思いがこみあげた。あの展示物を見れば、常識のある大人ならこれに税金を投じることの理不尽さを感じ、非難がますます大きくなることはわかる。それを察知した大村知事は、テロの危険性をことさら強調し、自分たちを「被害者の立場」に置いた上で“遁走”したのだろう。》

 憲法21条で、河村市長を攻撃した内容についても墓穴を掘った。東大法学部がまったく憲法解釈を間違えているのだ。これは多くの学者・弁護士から指摘されているところである。ここは河村憎しの感情に流されずにきっちりと下調べしてからものを言おうね。

 

 いけない、トリエンナーレ批判の量が多すぎて、「WiLL」まで行きつけなかった。「WiLL」については明日のココロだ~。