『響』(ひびき)を読んでようやく解かりました

 恥を話そう。

 小学4年の頃、手塚治虫石森章太郎に憧れて、漫画家になろうとした。駅前の今は都市改造でなくなってしまった小さな書店で、石森章太郎『漫画家入門』(秋田書店)を手にした瞬間が、ある意味で人生の分岐点だったのかもしれない。

 物心がつく頃から、絵を描くことは得意だった。4才か5才だったと思う。祖母に求められるまま、鉛筆で「百人坊主」を描いたけれど、この絵を見て病気がちだった祖母が涙を浮かべていたことは強く覚えている。

 やはり5才か6才か、祖父と国府宮のはだか祭に行ったときの絵が残っている。はだか男や観客がたくさん入り乱れる臨場感あふれるもので、遠近法も使われて、遠くに祖父と子供のワシャが描かれている。裏には「ぼくわおされてなきそうでした〇でもなくとはづかしいのでなきません・・・」と平仮名ばかりで書いてある。「ぼくは」が「ぼくわ」になっているし「。」が「〇」、「はずかしい」が「はづかしい」になっているレベルからみると小学校入学前にものだと言える。祖父が会社から廃棄処分になる紙を持って帰って来てくれたこともあって、ワシャは暇さえあれば鉛筆を持って絵を描く子供だった。だから必然的に絵は上手くなった。

 そんな下地があっての『漫画家入門』だった。

『漫画家入門』をそれこそ貪るように読んだ。その中のエピソードに、石森先生が中学生の時にマンガ研究会を立ち上げるというものがあり、そこにワルシャワ少年は食いついた。

 小学校4年の夏だったかなぁ。庭で父親に「漫画研究会をつくりたい」と相談したことを今でも覚えている。その時には、やんわりと止めるように、もう少し様子を見るように説得されて、まぁワシャにもそれほどの根性がなかったんでしょうね。親の協力が得られないと分かって断念したものである。

 しかし、漫画というか物語の構成については『漫画家入門』で勉強を続けた。石森先生は、『龍神沼』という作品を使ってシナリオ構築の方法を教えてくれた。「モチーフ」「テーマ」「プロット」「コンテ」「シノプシス」などという言葉もこれで覚えることになる。

 小学校5年~6年で永井豪の『ハレンチ学園』が一大ブームとなった。ワシャも感化されて、十兵衛(ヒロイン)のヌードを描き写したりしていて、その絵がまじめな母親に見つかって、こっぴどく叱られたっけ。

 叱られたこともあって、絵を描くことよりもストーリーを創るほうにシフトした。たまたま父親が教員で、学校劇の脚本集を20巻くらい持っていたんですね。それを読み始めて、シナリオというか劇というか、そういったものに心が引かれるようになった。だから学芸会でもいつも主役だったですよ。

 ここから映画に踏み込んでいくのはある意味必然だろう。図書館に行けば、学校劇の本の隣りに映画のシナリオ集が並んでいたからね。とにかく中学校3年間は映画を観まくった。ここでゴダールトリュフォーなどに染まり、漫画少年は映画少年へと変貌していく。

 高校時代は、下手な自主映画を何本か製作した。いまだにフィルムは手元に残っているが、まぁ箸にも棒にもかからない駄作ばかりである。それでも、映像の現場というものを疑似体験することはできた。

 そんなことから、大学は日大芸術学部と決めていたが、諸事情(内申書の事情・泣)もあって、地元の私立大学に進まざるをえなかった。

 でもね、何ものかを産み出したいという気持ちは常に燻っていた。それは小学校4年からまったく変わっていなかった。

 就職をしても胸の奥には「創作」に対する澱のようなものが蟠っている。だからせっせと小説やらシナリオを書いていた。ゴミのような作品は腐るほどある。いや、納戸の奥で実際に腐っているかもしれない。

 小学校4年で『漫画家入門』に始まった創作関係の本の購入が、溜まりに溜まって、今、ざっと数えたら490冊あった。「小説の作法」、「文章の基本」、シナリオ講座のテキストから小説家セミナーのファイルまで、2棚にも及ぶ。しかし、その結果は、短編小説が1作佳作になったのと、文章講座での課題が4席に入ったくらいで、はいお終い。

 小学校4年から思い込んで、490冊もの「文章読本」を読破して、講座やセミナーに通い、本も山ほど爆読して、その結果がこの有り様ですわ。

 

 堀江貴文『読書するな。マンガを読め。』(主婦の友インフォス)で、何冊かの漫画が気になって、すでにそれらを入手している。

 山田胡瓜『AIの遺電子』(秋田書店)、尾瀬あきら夏子の酒』(講談社)、柳本光晴『響』(小学館)である。

 最後の『響』は、副題に「小説家になる方法」とあって、まさにワルシャワ的には、好物系のコミックと言っていい。

 これが衝撃的だった。堀江さん、紹介していただいてありがとう。物語は、15歳で芥川賞直木賞を同時に受賞する鮎喰響(あくいひびき)をコアにした小説家物語である。その第2巻に中原愛佳というライター兼小説家が登場する。彼女は大学在学中に文芸誌の新人賞に投稿をはじめ、28歳で入選し、受賞作を出版し、第二作を出版したが、その作品の売れ行きが悪く、次回作の出版を編集者から断られてしまう。その電話でのやりとり。

 

編集者「『午後の邂逅』の初週売り上げがでました。三千部刷って、消化率が28%・・・正直、かなり厳しい数字です。・・・その、正直、次、中原さんの本をウチから出すのは、厳しいかもしれません・・・」

中原「・・・そう、ですか」

編集者「デビュー作にあたる前作が5千部刷っての35%。それも厳しい数字でしたけど、それよりさらに落ちていますから・・・もちろん絶対に次はないというわけではなく、プロットしだいではあるんですけど。純文とはいえ売れ線みたいなジャンルはあって・・・いえ、中原さんはそういうの好まれないでしょうけど。ただある程度の数字が見込めないことには・・・」

中原「・・・書きます。次こそ、頑張りますから・・・」

編集者「・・・そう・・・ですか。ではプロットができたらお送りください。お待ちしてます」

中原「はい」

 

 中原は現在30歳。小説家にはなったものの、現在の出版不況でまったく商品価値を認められない。本人も「就職もせず、男も作らずに、ただ小説家になるために生きてきたんだ」と言っている。

 諦めきれるわけがない。新人賞まで取って、本を2冊も商業出版しているのだから・・・諦められるわけがない。

 中原はフラッと書店に入り、無料配布のラックに並べられた高校の文芸部部誌をなにげなく手に取る。そこに高校1年生の鮎喰響の小説があり、それを読むことになる。

 そしてその後、中原は編集部に電話をして次回作の出版を「諦める」と伝える。

「本物の才能を見たんです。私の理想はこれなんだって思って。そしたら、私はもういらないかなって・・・」

 30歳の中原は「無駄な10年を過ごした」ことを自覚し、小説を捨てて、ベーカリーショップに就職をする。2年後に常連客のサラリーマンと結婚し、二児に恵まれ、その後82歳で孫たちに囲まれながら生涯をとじる。

 

 ここを読んで、スーパーアホなワルシャワでもはたと気がついた。世の中には圧倒的な才能を持つ人間が存在することを(今頃かいな?)。

中原は、新人賞を取っているくらいだから才能には恵まれている人だった。しかし、鮎喰響の絶対的な才能の前には、その自負も自尊も木端微塵に打ち砕かれたのである。

 この漫画を読んで、ワシャも薄々とは感じていたが、司馬遼太郎藤沢周平池波正太郎との間には天竜川どころか、太平洋が横たわっていた。端から、同じ土俵に上がれるわけがないじゃないか。

 490冊もの「文章読本」を読み、小説のセミナーや講座に通って、「退職して時間さえできれば司馬作品に拮抗するものが書ける」と夢見ていた自分が恥ずかしい。