御面晤

  今朝の朝日新聞1面の記事下広告に『難読漢字の豆知識』(メディアパル)が紹介されていた。そこに「踝、辣韭、漸く…この漢字、読めますか?」と挑戦的なことが書いてある。そんなもの読めまんがな。読めてしまったので、この本は買うのを止めた。

 

 難しい言葉は司馬遼太郎さんに教えてもらった。「扈従(こじゅう)」「生々世々(しょうじょうぜぜ)」「剣戟腥風(けんげきせいふう)」「焔硝(えんしょう)」「性沈毅(せいちんき)」「遊弋(ゆうよく)」「尊王賤覇(そんのうせんぱ)」とか、『竜馬がゆく』の第1巻の最初のあたりだけでも、こんなのがぞろぞろと出てくる。「尊王賤覇」なんて、『広辞苑』にも『日本国語大辞典』にも『国史大辞典』にも出てきませんぞ。そんなのが司馬小説にはガンガン並んでいる。長年にわたって司馬小説を読んで、難読漢字に目が慣れてしまったわい。

 

 そうそう最近1冊の本を入手した。これが市立図書館のリサイクル本の棚に「司馬遼太郎との対話」という文字があったので、ワシャの司馬センサーが鋭く反応をしたのだった。手に取って見れば、梅棹忠夫編著『日本の未来へ 司馬遼太郎との対話』(NHK出版)である。

 梅棹先生には『知的生産の技術』(岩波新書)で大変お世話になった。それに司馬さんとかなりの交流があり、司馬フリークとしては目の離せない人であった。しかし、この本は見逃していた。対談については、司馬さんの書籍で読んだことのあるものだった。しかし冒頭に掲載されている「司馬遼太郎から梅棹忠夫へ」の手紙については、初見だった。もしかして見落としていたのかと『司馬遼太郎からの手紙』(朝日新聞社)や、『司馬遼太郎が考えたこと』(新潮社)などを当たってみたが、やはり初見だった。1986年に失明された梅棹先生に、司馬さんからのお見舞いの手紙である。これが凄い。さすが司馬さん。失明という絶望的な状況の梅棹先生に赫々たる文章を贈っている。

 相手は失明しているんですよ。そこに「なぐさめようもない」と言いながら、《晴眼状態にある者たちの思わざる思考の多色性や集中が、大兄の世界にあるようにも思えるのです。》と言う。

そしてやはり失明して、それでもストリップ劇場に通った舟橋聖一氏のエピソードや、医者から「やがて明をうしなうだろう」と言われ「その日が心から楽しみだ」と言ってのけた元日本共産党員の話とかを、失明したばかりの人に励ましの手紙にしている。それがことごとく励ましになっていて、失明したことを「春」と言い切ってしまう。それを梅棹先生は心より喜んでいる。

 なんとまぁ凄まじい文字の力であることか。

 

 この手紙の末尾を引く。

「大兄は、春の中にあります。その春を、もっとすばらしい春にしていただければ、まわりのわれわれはどんなにうれしいか、と思うのです。大兄なら、きっとすばらしい春になさるでしょう。いずれ、御面晤をえたときに」

 

 梅棹先生がどれほど勇気づけられたことだろう。

 そしてワシャは「御面晤(ごめんご)」という言葉を知った。「ごめんちゃい」くらいしか知らなかったので勉強になったわい。