憎悪の唱道(ぞうおのしょうどう)

 

 愛知県の大村知事は、トリエンナーレの「表現の不自由展・その後」中止の言い訳に、憲法21条の「表現の自由」があり、だから主催者とはいえ、内容を聞いていたとはいえ、「止めろ」とは言えない・・・というようなことを公表した。そして、河村市長が、大村知事に「中止を求めた」ことを、憲法21条違反であるようなことも語っている。

 

 これがまったく的外れな言い訳であると、科学者の武田邦彦さんは言う。

「『表現の自由』については1966年締結の国際規約で世界基準が決められている。日本国憲法の『表現の自由』の上に国際規約があるのは当然である。そこでは『差別の禁止』と『憎悪の唱道』には『表現の自由は適用されない』と決められた。だから今回の愛知のケースの展示では『表現の自由』は侵犯されていない」

 憎悪の唱道って耳慣れない言葉ですね。さすが武田さんは博識である。「唱道」とは「自らが先に立って唱えること」であり、憎悪を増幅するためのモノについては「表現の自由」は認められないのである。

 

 まともな理性を持ち合わせている人たちからは、今回の「表現の不自由展」中止は、「当然である」という認識で一致している。ただ、毎度毎度、こういった案件ではそうなのだが、ごく少数のノイジーマイノリティが大騒ぎをしてくる。未だに「『表現の不自由展・その後』の再開をもとめる愛知県民の会」が集会をしたりデモ行進をしている。しかし、これらは「愛知県民の総意」ではなく、極めて少数の色付き愛知県民の会であり、あちこちに出没する反日団体と根を同じくする者たちである。

 彫刻家と称する韓国人が「平和の道を開いていくために展示した」と言っているが、「憎悪の唱道」を悪化させるものに、そもそも「表現の自由」はなく、さらに言えば、価値観の多様性のない塊はモダンアートですらない。

 そのことについても、まともな識者たちが声を上げているので、反日団体の言っていることが、単なるデマゴギーであることは明白だ。

 

 大村知事に好意的な識者も残っている。彼らは「さっさと非を認めて謝罪したほうがいい」と言っている。

 例えば、ジャーナリストの須田慎一郎さんは、大村知事が言い訳に使った「検閲」についても「検閲というのは、公権力が一般的、網羅的に禁止することで、公的施設で展示を止めたけど、他でどうぞ自由にやってください、というのは検閲に当たらない」と論破している。そして、爆破予告をしたバカを取り締まるのは愛知県警であり、愛知県警のトップは大村知事本人に他ならない。つまり、それほどまで曲解した「表現の自由」を守りたいのであれば、自らの持つ知事権力を使って、会場周辺を県警に守らせてでも開催継続すればよかったのだ。須田さんの言うことはもっともであり、そういった一連の行動の矛盾を大村知事は県民に説明する義務がある。それは、どこにでも顔を出す愛想のいい知事だから許されるというものではない。

 

 不愉快な話はさておき、夕べ、裏庭で鈴虫の鳴くのを聴いた。確実に秋が近づいてきている。