コミュニケーション能力

 昨日の中日新聞に「コミュニケーション能力の向上について学ぶ講座」記事が載っていた。そこで講師は「コミュニケーションツールとしての新聞」について語ったそうな。「興味を持ってもらう話題を探すにはとても有効な道具」という手前味噌な発言が恥ずかしい。

 ワシャは割と人との面と向かってのコミュニケーションは得意としている。よほど、新聞の記事で話題をもっていったことはない。むしろ、朝日新聞などはウソが多いので、話題に出すのは控えなければならないと思っている。それに紙の新聞は、タイムリーではなく、情報の早さということで言えば、ネットに軍配を上げざるをえない。

 そういったことを前提として、やはりコミュニケーション能力の向上のためには、読書に勝るものはないと思っている。話題についての深さ、広さをその人が持っているか、そしてそれをひけらかさない気品を備えていることが重要であろう。

 

 座談の名手といわれた司馬遼太郎さんは、出会った人々のほとんどが司馬ファンになってしまうほど、心憎いまでのコミュニケーション能力を備えていた。

 司馬さんの支那旅行に初めて同行した高峰秀子はこう書き残している。

《あっというまに旅は終わり、一行は香港で解散した。別れは寂しい。ことに司馬先生御夫妻とはこれっきりお目にかかる機会がないにちがいない……。けれど、そういう私たちの心を見ぬくかのように、司馬先生が例のやわらかい口調でこうのたもうたのである。「旅には終わりがありますなァ。でも、あなたがたとは、これが旅のはじまりだっていう気がするんだ」》

 これを言われて、さしもの高峰秀子もまいってしまった。この時から、司馬遼太郎の親衛隊になったのだそうな(笑)。もちろん、司馬さんは誰にでもこんなセリフは言わない。高峰秀子の深い教養や人間力をみてとった上でのコミュニケーションであったに違いない。

 おそらく司馬さんは、その人生で「今朝の新聞にこんなことが書いてありましたなァ」などといった話柄の切り出し方をしたことはなかったであろう。

 その点、ワシャの日記は「今朝の新聞」「昨日の新聞」的な話題が多い。お恥ずかしい限りだが、しかし、面と向かってではないのでご容赦くだされ。

 

 コミュニケーション能力の陳腐な人もいる。名古屋の河村みゃーみゃー市長である。

 先日、藤田嗣治の作品2点が名古屋市に寄贈された。当然のことながら寄贈者はスーツにネクタイ姿でその場に臨んでいる。これに対するみゃーみゃー市長は、相変わらずの派手な絞りのシャツ(茶色)のみで、その服装には、寄贈者に対する感謝の念も、藤田嗣治への尊敬の念も感じられなかった。文化庁には忖度した格好(スーツにネクタイ、白いワイシャツ)で出かけるのにね。

 

 司馬さんのコミュニケーション能力の高さについてはこちらにも。

阿川弘之と司馬遼太郎 - 遼東の豕