遊びをせんとや生れけむ

梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)巻第二、四句神歌(しくのかみうた)雑(ざふ)の一首の冒頭である。『梁塵秘抄』というと、まずこの歌と言ってもいい。

 

「遊びをせんとや生(うま)れけむ 戯(たはぶ)れせんとや生(むま)れけん 遊ぶ子供の声(こゑ)きけば 我が身さえこそ動(ゆる)がるれ」

 

 ワシャは忙しくなると、この歌を思い出すのじゃ。今、「遊びてぇなぁ」と思っているんですね。遊びといってもそんな大したことではない。東銀座の歌舞伎座に行ったり、上野で美術館を覗いたり、浅草でどぜうを食ったり、その程度のことである。寺社を巡り、落語を聴き、たまに友だちに誘われてクラシックコンサートに顔を出すくらい。どれも趣味と言えるほどのものではなく、「遊び」の範疇を出るものではない。

 だからこの歌がちょうどいいんだ。解釈はいろいろあろうが、執務をしていて、外から聞こえてくる子供たちの歓声に「麻呂も遊びたいでおじゃる」とか思ってんじゃないの。

 ゴルフはしないし、ギャンブルも卒業した。スポーツ観戦にも熱中しなかった。海外旅行は、そもそも飛行機嫌いだし、高級車など乗り回したくもない。贅沢なことは望まないのだ。龍安寺の縁側で石庭を見ながらぼんやりとしていたい。その程度のことなんだが、言う人に言わせると、「今の仕事だって、お前の遊びの延長にあるんじゃないのか?」ということになるらしい。じゃぁワシャはずっと「遊び」の中に居続けているようなものか。

 

 朝から書庫で『梁塵秘抄』(小学館)を繰っているのも遊びの一環なのだが、読んでいてこんな歌を見つけた。

 

「そよ、君が代は 千代に一度ゐる塵の 白雲かかる 山となるまで」

 

 これは「国歌」の「君が代」と同想の歌であろう。解説に依れば「だたし、小石の巌への生成よりも、この歌の塵から山への変貌のほうが大がかりで、さらに千年に一度の堆積という条件が誇張を強めている」のだそうな。

 左翼が「君が代天皇の世が長く続く歌だから不快だ!」と絶叫しているが、まだまだ「国歌君が代」はスケールが小さいんですね。この歌は「千年に一度の塵が積もって山になる」というのだから(笑)。

 あ~朝から遊んで楽しかった。さて、そろそろ仕事に行かなければ……。