プラスチックへの御託

 今朝の「天声人語」の書き出しである。

ダスティン・ホフマン主演の映画「卒業」(1967年)の冒頭に奇妙な場面がある。》

 ほほお~、映画の話から書き起こしてきたか。映画好き、とくに映画小僧だった時に観た映画を持ってこられては「おや?」とついつい駄コラムと知りつつも読んでしまう。

《大学を卒業した主人公が地元に戻り、パーティーで旧知の紳士に会う。そしてこんなひとことを言われる。「プラスチック」▼紳士は続けて、プラスチックには将来性があると話すが、映画の作り手が何かを暗示しているようにも思える。評論家の町山智宏さんは「作り物、見せかけ、インチキ」の意味が込められていると見る》

 どうおもしろい展開になるのかと期待しつつ読んでいたのだが「プラスチック」が出てきた瞬間に「な~んだ」と思っちまっただ。

 

 5日前の朝日新聞の社説が《プラごみ削減「使い放題」は許されぬ》というシロモノだった。

 この社説については5月17日の「虎ノ門ニュース」で武田邦彦先生が「朝日新聞は頭がおかしくなったね」と前置きした上で、こう言われた。

「使い放題ゆるされぬ……っていうのは、どんなものでも使い放題はゆるされないんだよ。プラスチックも鉄板もごはんも、使うんですよ。使うことはいいんですよ。使い終わって、ゴミが出たら廃棄するでしょう。魚を食べたら骨がゴミとして出るじゃん。朝日新聞の人は骨も食べるの?腐った玉子だって捨てるだろう。朝日新聞の記者は、腐った玉子も死ぬ覚悟で食べるの?」

「この社説は『プラスチック』と『毒物』と『使い放題』の3つのまったく関係のない話をくっつけて、何をしようかとしていると、プラスチックを敵にして新聞の売り上げを上げようとしているだけなんですよ」

「プラスチックは何の問題もない。使い終わったら焼けばいい。焼けばきれいなCO2とH2Oになるんですよ」

 これに対して、同席していた経済ジャーナリストの須田慎一郎さんが吠えた。

「学者ってのは真面目だねぇ。もう朝日新聞の社説なんか誰も読んじゃぁいないんだよ。朝日の社説なんてバカが書いているんだよ。俺なんか朝日の社説を目にしたのは、今年、これが初めてだよ。だからなに書いてもいいんだ。誰も読んでいないんだから」

 その発言に、武田先生もMCの居島さんも大爆笑をしていた。

 

 ここまでが長い前段。この社説を受けて、今日の「天声人語」が更にバカを拡大している。天声人語のバカは言う。

《プラスチックそのものも長い間、快適な生活を支えてきた。しかし裏側にある醜い現実が覆い隠せなくなっている》

 いいですか、ここで天声人語の言っている「醜い現実」というのは、朝日新聞が今まで煽ってきた「リサイクル」という虚のことである。

 ワシャは10年ほど前に「環境でトップになるんだ」と妄想を抱いた凸凹な組織にいたが、その頃から「リサイクル」という幻想には疑問を持っていた。それは、この日記を遡ってお読みいただければ明白なのだが、バカが「リサイクル」という念仏に踊らされた平成の「ええじゃないか」だと思っている。

 駄コラムの結にこんな文章があった。

《映画は主人公が花嫁を連れ出すシーンで終わる。それまでの過ちやしがらみを洗い流す爽快感がある。》

 アホか!「卒業」は映画としては佳作だとは思う。しかし、世間の仕組み、しがらみと言ってもいいが、それを破壊して、花嫁を強奪する男の行為は、確かに「恋に恋する若者」には受けるのかもしれないが、社会の組成や人生の機微を熟知しているはずのコラムニストが褒め称えることではないわさ。

 それで、結論は《地道に減らすのみである。》かい!読んで損こいた。須田さんの言うとおりだった。