死を日常的に見たくない

《「死を日常的に見たくない」 余命短い患者の「看取りの家」計画に住民反対 神戸》

https://news.yahoo.co.jp/pickup/6314803

《住民側は「亡くなった人が出ていくのを見たくない」「落ち着いて生活できない」など、死を前提とする計画に拒否感を示す。》

「なんじゃそりゃ!」

 ニュースを読んだ瞬間にワシャの口をついて出たのがこれだった。

 ワシャは以前から、自宅は墓地の隣でもよく、葬儀場の近くでも構わない。火葬場でも最近は煙が出ないというから、だったら近所にあってもいいと思っている。

 反対運動をしている住民たちが「死を日常的に見たくない」「亡くなった人が出ていくのを見たくない」というのを理由に挙げている。でも、それはないよね。看取りの施設の隣に住んでいたとしても、死は日常的に見られない。だって、亡くなられる方は施設の中で息を引き取るわけで、隣家の人の目の前で死なないでしょ。亡くなった人が出ていく時、霊柩車かなにかで出ていくのだろう。これも霊柩車が走るだけで、亡骸が生のまま出ていくわけではない。それが1日に何回あるというのだろう。おそらく月に1回あるかないかの話ではないのか。それは日常的とは言わないし、それでも「死」を「死体」をイメージしてしまうって、そこまで想像をたくましくしなくてもいいんじゃないの(笑)。

「落ち着いて生活できない」って、おいおい、「死」という静寂を身近に感じていたほうが落ち着くのではないのか。反対運動をしている住民だって、神社、仏閣、教会、あるいは陵(みささぎ)などにも足を運ぶのではないか。そういった場所に行けば「心が落ち着く」と感じるんじゃないの?

 そういった場所は、とても「死」と親和性の高いところでしょ。そこはよくて、看取りの施設には「死」がまとわりついているので嫌だってのは、ちょっとばかりWスタンダードではないのか。

 少なくとも施設で看取られて亡くなっていく方たちは、近隣住民の身内ではないまったくの他人である。知らない人の死、それは冷静に見つめられると思うのだが、違うのかなぁ……。

「死に支度をいたせいたせと桜かな」

 一茶の句である。散る桜におのれの死を見、その準備を怠りなくしておこうという毅然たる思いがあふれている。死は万人に訪れる。巨万の富を築いた富豪にも、難民キャンプの飢えた幼子にも、見取り施設で息を引き取った方も、その施設の周辺に住んでいる方にも同様にである。お互い様ではないか。

 旧約聖書の『コヘレトの言葉』第7章に「弔いの家に行くのは酒宴の家に行くのにまさる」とある。この言葉に続いて「そこには人皆の終わりがある。命あるものよ、心せよ」と言う。「そこには」というのは「弔いの家」であり、「人は皆いずれ終わるので、人よ、心して生きよ」と言っている。

 養老孟司さんが『死の壁』(新潮新書)にこう書いている。

《「死だの死体だのは見たくもないし、考えたくもない」という姿勢は、当たり前のことを見ようとしていないということに他ならない》

 

 みんな、終わるんですよ。それが1日早いか遅いか。還暦が2回巡れば、今生きている人はすべて死に絶えている。生きとし生けるものの前には、死が大前提として横たわっているのだ。お互い様なのだから、もう少し心を広く持とうではないか。