大寒の埃の如く

 今日は大寒。ううむ、節気も大詰めに差し掛かった。大寒が過ぎれば春が立つ。温かな兆しが見え始める。もう少しですぞ。がんばりましょう。

 高浜虚子大寒を句にしている。

大寒の埃の如く人死ぬる」

 ワシャは俳句は素人なのでよく解からないが、虚子の死生観が感じられる一句だと思う。
大寒の埃」とは、寒い朝、書斎の障子越しに射す光に浮かんだ微小な埃のことだ。小さなものと大いなる寒さの対比がおもしろい。虚子はその埃が室内の暖気の対流をうけてきらきらと舞っているのを見た。時間の経過とともに埃は墜ちていき、やがて畳の目につかまって動かなくなる。それを死と観たか。
 人の生き死にも大いなる自然から見れば、埃の死と大差ないのだよ、だから嘆かないでということなのだろう。

 こちらは埃ではなく巨星だった。第48代横綱大鵬親方が亡くなった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130119-00000034-dal-spo
 ワシャは物心ついたころには大相撲中継を観ていた。祖父が大の相撲ファンで、テレビ桟敷で祖父の横にちょこんと座って相撲観戦するのが日課だった。ちょうど大鵬の全盛期と重なっていた。
 大鵬は昭和35年の九州場所、東の関脇で優勝する。以来、46年1月の初場所まで、計32回の優勝を積んでいく。ワシャはずっと大鵬の優勝を見続けたと言っても過言ではない。
 大鵬の引退する前年、玉の海北の富士横綱に昇進した。ことに玉の海は愛知県蒲郡出身だったので、祖父もワシャも大声援をおくったものである。でも、翌年に盲腸の手術後に急逝してしまう。これからだったのに……テレビでそのことを知った祖父とワシャはやけ酒を飲んだなぁ。もちろん祖父だけね(笑)。
 その後、北の湖、輪島、三重ノ海若乃花の時代がやってくる。昭和50年代の半ばのことである。この頃、苦学生だったワシャは学校に行かずアルバイトばかりに精を出していた。そのおかげで相撲雑誌を初めて買うことができたわけだけど。その第1号は、昭和55年春場所展望号で、表紙は新大関の増位山である。
 あの頃の大相撲は見ごたえがあった。北の湖は憎らしいくらい強かったが、他の三横綱も頑張っていた。そして大関貴ノ花と増位山と軽量力士だったが、これがまたいろいろな技を駆使して横綱を苦しめるのである。関脇にも栃赤城荒勢という曲者が座り、その下には幕尻から駆け上がってきた朝汐、実力をつけ始めている千代の富士隆の里などが揃い踏みだ。毎日のテレビ桟敷が面白かった。
 その春場所展望号のことである。すでに土俵を去って10年が経つというのに大鵬の記事がいくつも載っている。引退しても大鵬は鯛なのだ。
 弟子の巨砲(おおづつ)が新小結になったので、その稽古場での写真が掲載されていた。大鵬親方が巨砲になにやら指導をしている。また春場所から大鵬親方は協会の新理事に推挙されていた。このためにその関連の記事2か所に顔を出している。
 その上に「大鵬幸喜伝」という連載もあって、雑誌のそこここに大鵬が登場する。横綱を退いても大鵬は大相撲の屋台骨を支えていた。
 晩年の大鵬は大相撲の不振もあって不遇をかこっていた。大鵬部屋を継いだ娘婿の大嶽親方は、つまらぬ事件に巻き込まれて協会を解雇されてしまう。持病のほうも芳しくなかった。それでも昭和の少年たちにとって大鵬大鵬であり、誇り高きヒーローだったのだ。

「降る雪や 明治は 遠くなりにけり」
  
 これは、中村草田男が昭和6年に詠んだ句である。明治が終わって20年経った頃にあたる。現在、昭和が終わって四半世紀が過ぎている。ちょうど感覚的にはそんなものかと思う。
  
 また一つ昭和の記憶が遠ざかっていく。