なんでも書けばいいというものではないよ

 月曜日の朝日新聞。「文化の扉」というコーナー記事である。津島に行くまでの名鉄電車の中で書こうと思ったんだが、予想外に混んでいて書けなかった。だから今日はどっしりと腰を落ちつけて書きまっせ。
《旅芝居 庶民とともに》
https://www.asahi.com/articles/DA3S13714296.html
《劇場や温泉施設などを拠点に興行を続ける大衆演劇(旅芝居)。人情の機微のこまやかさと美しいセリフがほろり涙を誘う。観客がまばらでも手を抜かず繰り広げられる汗みどろの演技。本当の民衆芸能の姿がここにある。》
 大見出しの横にこう説明がされている。まぁその通りですね。そしておもむろに本文に入っていく。
《前方に陣取ったおばちゃんたちがペンライトを振って声援を送っている。「待ってました!」「日本一!」の掛け声。大衆演劇を専門とする劇場を訪ねると、舞台上の役者と観客の距離が驚くほど近いのがわかる。》
 この後に大衆演劇ルポライターによる、数値的な分析が入って大衆演劇が「西高東低」で「大阪に核がある」ということが理解できる。
 その次は章がかわって「ドサ回り」の「ドサ」についての薀蓄を語る。朝日新聞編集委員様は「ドサ」は《「小屋の中に雨が土砂のように降る」「土に座る」》ではないか?と言っている。《語源は諸説ある》と付け加えているからなんでも許されるのだが、ワシャは素直に『日本国語大辞典』にある説を採りたい。
 まず「どさまわり」を調べると《(「どさ」は、いなか・地方の意)劇団などが地方を興行してまわること。》とある。で、「どさ」を見てみると、《①「どさあ」に同じ。②地方・田舎、また、田舎者をさげすんでいう語》なのだそうな。では「どさあ」を確認すると、《(東北弁で、「…ということだ」の意から)東北弁や東北地方の人をいう。》
「どさあ」は江戸期の『排風柳多留』に出てくるというから間違いない。編集委員の採用している「土砂降り説」のほうは、そもそも「土砂」が宗教的な「土」「砂」のことを指しており、「雨がはげしく降ること」を「土砂降り」と表現したのは、島崎藤村あたりからではないのか。
 まぁいいや。こんなところで字数を使っている場合ではなかった。
 次の章は「大芝居」(歌舞伎)と「小芝居」(大衆演劇)との違いや歴史について書いている。《テレビの普及や娯楽の多様化の影響で戦後衰退するが、80年代、東京浅草から梅沢登美男さんらスターが出て人気が再燃する。》ふむふむ。でね、現在、当時の2倍の1300の劇団が興行を打っているという。すごいね。
 ここまでは情報を伝えるという意味の特集記事としてはまずまずだったのだが、ここから編集委員、とち狂ったか。最後の最後で突然こう切り出す。
《主人公としてオールドファンに懐かしいのは国定忠治だろう。》
 これで現在の朝日新聞が老人向けのメディアであることを露呈してしまう。今の50代以下では「国定忠治」の名前くらいは知っていても、その実像はほぼ知らないだろうね。講談や浪曲ではヒーローになったが、実際には北関東の博徒で人殺しだった。人を殺すときには残忍だったという史実もある。そういった実例を「大衆演劇」つながりで持ってきて、それも人の口を借りるという朝日お得意の手法を使ってしめる(笑)。
《最後は幕府に囚われ、磔の刑となったが、「反権力」の象徴として庶民の喝采を浴びた。「忠治はいまもなお、公序良俗に汲々とする我々を叱りつけているのではないだろうか」。国立歴史民俗博物館名誉教授で、「国定忠治」》(岩波新書)の著書がある高橋敏さん(78)はそう語る。》
 ワシャは、冷酷な人殺しの犯罪者に叱りつけられたくはないけどね。

 さて、ようやく佐高信さんにたどり着いた。
(明日につづく)