佐高屋、待ってました!

 待っていないか(笑)。
 昨日ふれた編集委員の文章を受けて、佐高さんは「アウトローへの共感」と題した400字ほどの小文を寄稿している。まず、佐高さん「日本は人と同じようにすることを強いる社会である」と言う。う〜ん、あなたの好きな左側の社会の方がその点についてはもっと強いと思うけど、まあ社会というものはそういった面もあるということで先に進みたい。
大衆演劇には道を踏み外したアウトローが出てきます」と佐高さんは言う。
 確かに「国定忠治」はそうだけれども、他の演目には必ずしもその指摘は当たらない。
「世間という荒波を乗り切るために不幸な生き方を選ばざるを得なかったが、過酷な運命に立ち向かう姿に、観客は共感する」
 殺人者の忠治がそうかというと、若干の疑問を感じざるを得ないが……まぁそういうこともあるからね、観客は共感するとしましょう。
「社会から侮辱され、白眼視されてきた者が一瞬の光芒を放つ。そんなすごさも大衆演劇にはありますね。それを見て観客はスカッとするのではないでしょうか」
 オッサン、「国定忠治」にかなり引っ張られている。大衆演劇の演目の中には徳富蘆花の「不如帰」やプッチーニの「蝶々夫人」だってあるんですぞ(苦笑)。
 そして締めがこれだ。
大衆演劇の役者には『権威に与したくない』という意地があります」
 そんな烏滸がましいものを、役者さんたちは持っていないって。オッサン、「男は辛いよ」をしっかりと見なさいよ。
 シリーズ全48作の中に何度も「坂東鶴八郎一座」というドサ回りが出てくる。彼らからにじんでくる風情が大衆演劇の本質だと思いますよ。彼らはけっして「権威に与しない」とか考えていないから。
 例えば2回目の出演が、第18作だった。信州の別所温泉での千秋楽の舞台を途中で止めて、客席に来ていた寅次郎を、まばらに座る客に紹介するという場面がある。スポットライトが客席の寅次郎に当てられ、そしておもむろに座長の鶴八郎がこう言う。
「東京からわざわざ見に来てくださったご贔屓様でございます」
 これなんかは、田舎の客に「東京の贔屓」という権威をさりげなく使ってアピールをしていると思うんだけど。

 佐高さんの小文は続く。
「東北生まれの僕にはそれ(大衆演劇の役者衆が権威に与したくないという気持ちを持っていること)がよくわかります」
 おひおひ……権威にすぐ与したがる佐高さん、東北人という巨大な括りで役者さんたちと同じになっちゃいかんでしょ(笑)。そして止めがこれだ。
「芸能は本来、庶民のもの。金持ちが楽しむものでも、特権階級や大資本のものでもないのです」
 でたー!
 確かに芸能は庶民のものである。しかし、やはり金持ちや特権階級がパトロンとして援助することによって、クオリティーを高めてきたという現実は否めない。そのことを踏まえずして「庶民のものだ」と叫んでもなんの意味もないわさ。

 前述した「男は辛いよ」の例で話したい。
 寅次郎が以前に甲州で出会った「坂東一座」に信州の別所温泉で再会し、千秋楽の舞台の最中に紹介されましたよね。
「ご贔屓様」と言われちゃぁ、素寒貧の寅次郎でも気合を入れなければならない。その晩、寅次郎の泊まる旅館に役者衆を招いて、大宴会を催す。もちろん寅次郎の奢りである。
 翌朝、トラックで次の公演場所に向かう一座を、二階の窓から見送る寅次郎の顔は穏やかだ。その後、寅次郎は宴会費用を払うことができずに、無銭飲食で警察に拘留され、ここからいつもの失恋ドラマが始まる。

 ということなのである。「庶民のものだ」でいいのだけれど、庶民の寅次郎が役者衆に施すのには限界があるのだ。その限界を「男は辛いよ」のこのエピソードは図らずも示している。
 それは役割分担でいいのではないかと思う。金のある義侠心のある男が、役者衆に御馳走をして、庶民は小屋に詰めかけて声援を送る、それでいいのではないか。
 不必要に大衆演劇は「金持ち、特権階級、大資本」のものではないと叫んで「庶民」との差別化を図らずとも、その境界線があいまいなまま、気が向けば素寒貧の寅次郎が、役者衆に奢るということがあったっていいじゃありませんか。
 イデオロギーゆえのことと拝察いたしますが、「旅芝居」を取り上げて、ことさら声高に「階級闘争」を前面に出さなくてもいいような気がするのであった(笑)。