昼行燈の踏ん張り

 コラムニストの勝谷誠彦さんがいいことを言っている。昨日の有料メールである。
 西日本の豪雨被害で、警察、消防、自衛隊の活躍ぶりに感謝を示しつつ、縁の下で頑張っている各自治体の「役場に泊まって、不眠不休でひとびとを支えている職員たち」を褒めている。
《武士が残っているのだなあと私は感じる。ふだんは昼行燈のようであっても、いざという時には命をかけるのが武士だ。》
 そうですね。ワシャの友人にもいざという時に命を張れる昼行燈がたくさんいますぞ(笑)。
 勝谷さんは続ける。
《地方公務員というと、給料に恵まれて、庁舎近くのスナックで呑んだくれて…って、それもある。だが「いざ鎌倉」となった時に、彼ら彼女らの目の色はかわる。「この秋(とき)のために禄を食んでいたという覚悟が違う。そうした姿を確認したうえで、きちんとトップたる首長が理解して、褒めることができるかを見て欲しい。それができないような奴はダメだ。》
 これは、勝谷さんが成り損ねた兵庫県知事に言っているんでしょうね。これもその通りである。昼行燈(に見える普通の職員)が火急の時に、命を張れるかどうかは、まぁどんな組織でもそうなのだが、上が「きみの功はきっちりと見ているよ」ということが、極めて重要になってくる。だから、戦国時代のどの戦場でも武将たちは、大将に見てもらうために派手な甲冑をつけ、目立つ旗指物をひるがえして、あえて激闘に突っ込んでいったのだ。そして名将たちは、部下の活躍に対して、なんでもいいから手元にあるものを下げ渡して褒める。部下はそんなことでも嬉しい。そういう手を使うのはリーダーとして当たり前のことなんだけどね。
 なんにせよ、部下の仕事に対して褒めることのできないトップは愚物と言っていい。

 もうひとつ勝谷さんのメールからヒントをもらって考えたい。「公」と「私」ということである。今、ワシャは「公」を先に持ってきた。もちろん「私」よりも「公」が大切と考えるからである。それが戦後「感傷的左翼」の増殖によって、世間では「私」が「公」よりも優先する風潮が高まった。この愚は、行き着くところまで行ってしまった観が強い。
《〈豪雨死者・不明者〉実名公表、3県で差 情報共有か保護か》
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180712-00000003-mai-soci
 個人情報保護という壁が立ちはだかって、行方不明者の安否確認ができないのである。緊急時であろうがなかろうが、人命よりも優先されるプライバシーなどあるはずがない。有能で勇気のある首長は、さっさと人命優先の決断を下す。無能で、自分の身の安全ばかりをはかる愛媛県知事――加計学園問題で煮え切らない発言をしていたオッサンがいたでしょ――は、「個人情報保護」などを理由に、死傷者と不明者の氏名を明らかにしておらず、氏名公表について「慎重になるべきだ」との見解を示したんだとさ。しかし「公」と「私」ということを考えれば、必然的に「公」を優先すべきだろう。慎重に慎重に検討に健闘を重ねて、人命をそこなって、なにがリーダーか。