ワシャは小学生の頃から切手を集めていた。でも中学校に入って部活や映画のほうに興味が移ると、自然に切手収集から遠ざかった。それからかなりの歳月が過ぎて、切手収集のようなものが復活したのは、就職して企画部門に配置転換になってからだった。なにせ忙しい部署で日常的にも社長や副社長、執行役員に追い使われている上に、6月末から10月までは、月に120時間とかを超える残業をしていたものである。今なら確実にブラック企業だわさ。そうなると、まったく飲みに行く暇もなくなり息抜きをすることができなくなった。1年目はそれでも若さで耐え抜いた。しかし、2年目はなにかストレス対策をやらないと「潰れるな」と考えた。それは頭を使わない単純作業がいい。そこで思い出したのが「切手」だった。
押入れの奥からストックブックを引っ張り出してきて、ピンセットで並べ替えたりしていると、1日の頭の疲れが消えていく。「これだ!」と思いましたな。そっこうで「ユニセフ」やら「切手商」に連絡をして未整理の切手をキロ単位で送ってもらった。これが座敷に広がった時から、家に帰って仕事のことを考える余裕がなくなった。とにかく整理をしないと座敷の切手の山はなくならない。いったい何万枚、いやいやもっと多いかも知れないが、それを整理しきる頃には4カ月が過ぎていた。仕事場では仕事、家では切手の整理、これでブラック企業(笑)の6年間を務めあげることができた。
だからワシャは切手の収集家ではない。切手の整理家と言っている。価値のある切手なんてほとんど持っていない。大半が使用済みの切手で、それが種別、類型別に分けてあるだけのことなのである。
でもね、そんなストレス解消が目的の変な収集でも、やはり切手の美しさには心ときめくのだった。「切手は小さな美術館」と言われる所以で、ワシャが足しげく美術館に足を運ぶのも、切手で知っているから、「その本物が見てみたい」ということになるからである。
上村松園も鏑木清方も、藤島武二、伊藤深水、黒田清輝、小林古径、速水御舟……み〜んな切手で覚えたのじゃ。切手のそのものの価値には興味がない。できれば画面は綺麗な方がいいが、消印が押してあっても構わない。
昨日、ワシャは休みだった。午後から職場に寄る予定があったけれど、それ以外は時間があったので、床屋にゆくついでにふらりとドライブに出た。
豊田方面を走っていると、ううむ、「ブックオフ」が目に入ってしまうんですな。そうすると入らなければならないような強迫観念に襲われる。だから立ち寄る。
そこで『現代日本美人画全集』を発見した。縦40センチ横30センチの大型本である。全12巻が揃っていたが、ワシャは松園の1巻と清方の2巻を購入した。ワシャ的にはこの二人が日本美人画の双璧だと思っている。
松園は完璧た。「序の舞」にしろ「伊勢大輔」にしろ、おそらく後進たちにこれだけの画は描けまい。
その点、清方のほうが、やや粗い感覚はある。粗い……というのは少し違うか。緻密さにおいて大胆、とでも言い替えようか。大方の作品に登場する美人がすこしぼんやりしている感じがするのだ。
松園はきりりした美人、清方はほんのりとにじんだ美人というのかなぁ
その清方の中でまったく違った印象を見せる作品が、タイトルの「築地明石町」なのである。
http://www.kakejikudo.com/item/HV-0055/
この人にワシャは中学1年生の時に逢った。切手趣味週間の15円切手だった。それまでの切手趣味週間の切手の画は派手な美人が多かったんだけれど、鏑木清方の「築地明石町」の女性はちょっと違っていた。青磁色の江戸小紋に黒い紋付を羽織っている。少し寒いのだろうか、胸の前で袖を合わせて、ひょいと右手のほうを振り向いている。鬢の毛が少しほつれて、しかしいい女だねぇ。
ところがだ、そこまでは小さな切手ではわからない。画の細密な部分まで知ったのはそれからずいぶん後のことである。どこかで「清方展」をやっている時に、「築地明石町」に出逢った。そこで「ああ、この女はちょいとやつれているんだな」と思ったものである。
それからまた幾星霜、昨日、大型本の「鏑木清方」を捨て値で入手し、今、ワシャの書庫で悦に入りながら観ているんですね。大きな画面で観ているので、紋が「抱き柏」であることや、女の背景にある汚れのようなものが蒸気船であることも解った。
芸術というものは何度も何度も触れ合わないと、全部が見えてこないものなんだなぁ……と思った。