仙石権兵衛の子孫

「WiLL」や「Hanada」とともに、上品な『司馬遼太郎と宗教』(朝日新聞出版)も購入していた。今回は司馬作品の中から宗教にからむところが並べられ解説されている。第2部が「遠藤神学の世界」と題されている遠藤周作キリスト教をあつかった章である。
 ここに池坊保子氏が登場する。
 まず状況を説明する。司馬遼太郎さんは年始の客を避けるために年末から正月にかけて京都ホテルで過ごすことが多かった。そこには遠藤周作さんも避難してきており、気の合う二人はそこで歓談をしたものだった。遠藤さんのエッセーの抜粋が「遠藤神学の世界」の中に引かれていたので又引きをする。
《ホテルの中二階にある酒場に氏を誘い出し、おいしいとしか言いようのない話に聴きほれ、洛中洛外のたずねるべき場所を氏の該博な知識から引きずり出すのを一年の終わりの私的行事にしていたのである。》
 ある年の晦日に司馬さんと遠藤さんがホテルのバーで話をしている。そこである女性が合流することになっていたのだが、この女性が遅れていた。この女性が池坊氏である。
 別に池坊氏が遅れようが二人には関係ない。司馬さんと遠藤さんなのである。話は無尽蔵にある。そこで司馬さんが、秀吉の家臣の仙石権兵衛というきわめて灰汁の強い武将の辛口の話を始めた。
「自己顕示欲の強い男でな。九州の島津攻めの時も抜けがけの功名をしようとして、秀吉にひどく叱られとるやろ、小田原攻めの時、彼は胸にチャラチャラしたものをさげて、秀吉に目だつように戦に加わった男や」
 このことを聴いて遠藤さんが「池坊保子さんの母方の先祖が仙谷権兵衛だったはずだ」と言うと、司馬さんは「ほお」と言ったそうな。
 その話をしている時に、中二階から艶やかな「末裔」がご登場とあいなった。ここからも遠藤さんの文章を引く。
《洒落た服に、チャラチャラとしたアクセサリーを胸にかけて……。私は思わず声を出して笑った。保子さんも私の説明をきいて、「いやねえ」と笑った。司馬さんは一寸、困ったように微笑していた》
 池坊保子氏の登場である。ただし30〜40年前の話であるので、池坊保子氏も40前後の奥様だった頃のこと。今は見る影もないが、そりゃお美しかったことでごじゃりませう。
 でもね、司馬作品はたくさん読んでいて、もちろん仙石権兵衛の出てくる小説も読んだけれど、この仙谷権兵衛が今の池坊保子氏によく似ていらっしゃるから笑える。あまりにも親和性が高かったので、司馬さんも苦笑せざるを得なかったのだろう。

 以上は『司馬遼太郎と宗教』から孫引きのような形で書いている。悔しいので書庫の遠藤周作コーナーから本を持ってきてしらべたら『生き方上手 死に方上手』(海竜社)の中に原典となるエッセーがあった。ううむ……『司馬遼太郎と宗教』の引用と少し違っている。正確に引く。

「権兵衛はほんまに自己顕示欲が強かったんや」
 と司馬さんはあまり飲めぬ酒をなめなめ語った。
「戦場ではチャラチャラとなる金属の首飾りをして出陣したんや。そうすれば自分が目立つやろ」
 話をきいている最中に一人の女性がバーの入口から入ってきた。華道の世界で有名な家元夫人であり、私は彼女の無邪気で奔放な性格が大好きだった。立ち上がって夫人を司馬氏に紹介した。少し雑談をしたあと、
「奥さんの御先祖はたしかお公卿さんでしたな」
はい、と彼女はうなずいた。そして、
「母の実家の祖先のほうは千石(ママ)権兵衛でございますの」
 私と司馬さんとは思わず顔を見合わせた。
 夫人の首にはさきほどの話と同じように動くチャラチャラとなる首飾りがかけられていた。

 1989年の晦日の話だから、池坊氏の年齢が正確に割り出せる。47歳だ。このころから灰汁がおありだったんですな。年を重ねて、仙石権兵衛に近づいていったんしょう(笑)。