出家

 一昨日の宴で「出家」と「在家出家」について議論をした……と書いたが、「出家」に対する言葉が「在家」である。一般の生活を営みながら仏に帰依することを「在家」と言い、「出家」と「在家」とが両立しない。言うならば「出家」と「在家沙弥」(ざいけしゃみ)ということになる。
 残念ながら議論の中ワシャの口から「在家沙弥」というワードが出せなかった。正確を期すならば「出家」と「在家沙弥」で議論をすべきであったが、誤解とはいえワシャも含めメンバーは「在家沙弥」を「在家出家」と認識していたので、それはそれで議論としては成り立っていた。

 さて、「出家」である。そもそもお釈迦様は出家をした。王族たる地位を捨て、家族を捨て、一族を捨て、家も財産もすべてのしがらみをも投げ捨てて、始めて出家となるわけである。
 その点「在家沙弥」は、地位も名誉も一族郎党も財産も、すべて持ったまま剃髪をして半僧半俗の、そうねぇ例えば武田信玄などを思ってもらえばいいか。甲斐信濃の国主として巨大な館に住み、美女や寵童を侍らせ、ときに周辺諸国に戦を仕掛けて領土を強奪したりする。「信玄入道」って呼ぶでしょ。入道って在家沙弥のことなんですね。

 議論は「大変な方はどっち?」というようなニュアンスで展開した。ワシャの脳裏には「釈迦の出家」と「信玄の在家沙弥」が浮かんでいて、当然のことながら軍配は「出家」に上げた。
 ところがメンバーは「在家沙弥の方が大変だ」と主張した。おそらく彼の念頭には「妻帯し肉食もする現在の僧侶」と「在家で仏教に帰依する信心深い人」の比較であったろう。もちろん彼は「在家沙弥」を支持していた。
 当然のことながら、二人の考えていることの違いを埋めていくのが、議論の主たる部分となった。「鱧の湯引き」や「新選組」の話で箸を休めながら、それでもなんとか収まりがついたのだった。

 ほろ酔いで、帰路についた。電車もちょうどいいタイミングでホームに入って来たし、めでたしめでたし。