「明治は遠くなりにけり」と明治百年の頃はよく言われた。しかし、その明治もすでに150年の彼方に霞んでいる。ましてや江戸時代である。明治の先の時代は、遠い時間の湖の底に沈んでいるようなものだろう。
だから、江戸期の文献や芸能・美術・工芸などをいつくしんで、過去に存在したよき時代を確認しているのである。
昨日のことだった。隣町で、その江戸にひょいとでくわした。これにはびっくりしましたぞ。江戸城白書院帝鑑間が目の前の舞台の上に再現されたではありませんか。隣町というのは刈谷なんだけど、城下町においては、こういうことが起きるんだなぁ。2世紀を経て、未だに江戸の残り香のようなものが漂っている。うらやましい。
士族会の流れも脈々とつながっていて、その会長の話を聴けば、江戸というのはつい昨日のような話なのである。
現代書館の発刊する「シリーズ藩物語」の39番目が『刈谷藩』だった。その出版記念会が、刈谷市役所の南の市民交流センターで開催された。
ここに代々の刈谷城主の末裔が終結したのである。世が世ならばお殿様であり、武家貴族の方々が9人も揃っている。おそらく江戸期においてもこれだけの顔が揃うのは帝鑑間でしかなかったろう。もちろんワシャら下々のものは、江戸城登城は叶わぬし、その他の場所で殿様に拝謁が許されたとしても、三段も下の廊下から平伏して顔も見てはいけない。
舞台上の、水野勝成から出た宗家は従五位下日向守(じゅごいのげひゅうがのかみ)である。沼津水野は勝成の弟の忠清から始まる。勝成も忠清も刈谷の生まれ。その他にも深溝松平(ふこうづまつだいら)、久松松平など徳川家歴々の名家が続く。「頭が高い!」と近習侍から叱られるほどまじまじと見てしまったぞな。
藩主揃い踏みの前に、『刈谷藩』の著者である船久保藍さんの講演があった。その中で「三河武士」という単語をたびたび発せられた。「尾張武士」には特別なものを感じないが、「三河武士」と言った場合、では精神的ななにものかが響く……と、森銑三氏の発言を引いて話された。確かに「三河武士」という言葉には、江戸以降の日本をつくってきた特別な響きが感じられる。パックス・エドーナ(笑)とでもいいましょうか。江戸250年の平和の礎を築いたのは、外様に比べて石高を極端に抑えられた親藩譜代の辛抱強い三河武士団だったことは明白な事実であろう。
久しぶりに生の歴史に触れることができた。船久保さんの講演もおもしろかった。ようやく江戸暗黒史観が駆除されて、江戸時代が見直されてきた。これから江戸はおもしろいですよ。さて、もう一度、関連文献を読み直してみようっと。