司馬遼太郎の短編に好きな作品がある。「盗賊と間者」というもので、司馬さんが36歳のときの執筆だ。ワシャのほうが20年ほど長く生きているのだが、これほど人間観察の鋭い眼は持てない。そもそも天下の司馬遼太郎と比べること自体が無謀だった(自嘲)。
 さて、この小説、主人公のうどん屋(元は泥棒)の長兵衛が格好いい。たまたま殺傷の現場に居合わせた長兵衛を不審に思った新選組近藤勇に尋問を受ける。近藤は脅す。
「前職があろう。吐かぬと斬るぞ」
 8人の新撰組に囲まれている。それでも長兵衛はこう言ってのける。
「ああ、斬ってもええわさ。刃物の味には慣れている。人間なんてものは、偉そうなことを言っても、その辺の石ころと何のかわりもない。死ねば石ころになり、生きていれば、こうして口をきいている。俺はいつ石ころになってもええつもりで、七輪(かんてき)をあおいだり、うどんを煮たりしている。お前はんが斬れば石ころになり、斬らなきゃ、うどん屋のままや。人間ちゅうのは、どだい、それだけのこってな。前職がどうこうと騒ぎ立てるほどの代物やない」
 これは司馬さんの死生観である。おそらく人間ドックに一度もかからなかった司馬さんは「死ねば石ころになるだけのこっちゃ」と常々思っていた。体の小さな違和にも恐れおののくワシャとは覚悟が違う。
 司馬さんのエッセイに「それでも死はやってくる」がある。年譜に拠れば30歳のときに書かれたものだ。ここでも「石くれ」が登場する。戦車兵としてモンゴルの黒い砂漠で「死」と対峙しなければならなかった司馬さんは、石を握って、こう思った。
「この無機物と私と、どこに違った所があるのか。全く同じではないか。すべて真如に包まれている。そしていまの瞬間、私が死ねばそれは真如の許に帰っていくだけのことではないか。それから先はどうなるか、それは真如の御意思のままである」
 先般ご紹介をした哲学者の加藤博子さんのことである。彼女はよくひとり旅をするそうだ。そんな折に湖や川の岸辺で寄せては引く波や流れを見つめていると、頭の内側が洗い流されるような気持ちに浸れるという。そんな場所でたまたま手にした小石は、旅の濃厚な体験をよみがえらせてくれるきっかけになるのだそうな。
『五感の哲学』(ベスト新書)にこんなフレーズがあった。
「(その石が自分の想い出をよみがえらせてくれることを)でも、それを誰も知らないし、気づかれることもありません。これは宝石でもないし、特に美しいわけでもないから、私が死んだらゴミとして捨てられるでしょう。この石は再び、ただの石として転がってゆくのでしょう。そんなふうに、思い出だけでなく遠い未来のことに想いを馳せることもあります」
 
 脈絡はないが、どれも石の話で、石と人間とどれほどの違いがあるのか……というようなことをワシャに問うたような気がしたので、メモった。

 この間、長良川に行ったことは書いた。長良川の河畔で篝火を見ている時、足元に黒い円を認めた。確かな円さから「百円玉か」と思って拾い上げると、それは百円玉大の黒い石だった。手のひらに転がしてみれば百円硬貨というより碁石に近い。
 今、ワシャの机の上のフカキョンの写真の横にあるのだが、確かにそれを見ると長良川の水流の音が聴こえてくるような……。
 空耳ではない。部屋中に川の流れの轟きが充満している。

 あ、忘れていた。今まさにCDで「美しい日本の音スケッチ⑦名水の流れ」をかけていたのでした。