大平正義

「目先の御利益を誇張的に宣伝して、有権者の歓心を買うようなことはいやしいことであると思った」
 大平正義が大蔵省の事務官を退き政治家へと階段を進めたのは昭和27年(1952)のことだった。その時のことを後年ふりかえってこう言った。
 最近の政治家には耳が痛かろう。

 大平のことである。彼は大蔵官僚としてはあまり仕事をしなかった。そもそもちまちま仕事が不向きだった。運のいいことに部下に独楽鼠のようにくるくる働く男がいたので、みんな仕事はその小男に任せたという。その小柄な男が宮澤喜一だった。
 大平は「鈍牛」というあだ名をつけられていた。官僚としては「鈍牛」だったのかも。でもね、政治家としての能力は高い人だった。大平が首相としてワシントンを訪問した際に記者クラブで講演をした。ある女性記者から当時の日米懸案の「捕鯨問題」について質問が飛んだ。宮澤あたりなら、あたりさわりのない意味不明なことを回りくどく言い訳するのだろうが、大平は一言で決めた。
「あーー鯨はあまりに大きくて、うーー私の手には負えません」
 大平の憎めない相好にも助けられ、プレスクラブは大爆笑につつまれた。この微妙な質問はそれで終わりになった。
 大平首相は、歴代首相の中でも、知的でユーモアもあり、度胸もあった人だと思っている。自分のことを頭がいいと思い込み、細かいところまで首を突っ込む小心者の宮澤首相とはモノが違った。
 その大平さん、政策通でもあった。彼が作成した政策集は5冊あり、「私は、個性と創意が息づく、生き甲斐に満ちた社会を忍耐づよく切りひらく決意である」と訴える政策構想を打ち出した。堅実な政治家でもあった。
 昭和55年、大平首相が衆参同日選挙(史上初のW選挙)の選挙戦中に死去。これが弔い合戦となって6月22日の開票の結果、自民は圧勝した。
 あれからもう36年も経ったのか。

 夕べ、愉快な飲み会があった。久しぶりにお会いする人もあって、後半は同窓会のようになった。それもまた楽し。