隣人は恐い

《「みんなに迷惑かけないよう殺した」20年続いたご近所トラブルの末の惨劇》
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160619-00000521-san-soci
 殺されたほうが、執拗に嫌がらせをしていたのか……。それでも殺人というのは許されるものではないが、実際にひどい連中がいるからなぁ。
 地域コミュニティが崩壊し、性質の悪いのが野放しになっている。昔はそれでも地域に権威のある人物がいて、あるいは警察にもそれなりの力があって、本質的にわがままな人間を抑制してきた。しかし悪平等が蔓延し、クレームは言ったもの勝ち、無理は通したもの勝ち、権利は主張したもの勝ち、こういった風潮はどん底まで堕ちた感がある。
 国でも地域でも隣人は選べない。隣人とはうまくやっていきたいが、とんでもない隣人というのは存在する。人の敷地の一角を虎視眈々と習っている……間違えた、狙っている隣のでかい家の連中。人の庭の池にやたら花火を打ち込む半島暴走賊。こんなのが隣人で本当に困りものである。
 ワシャの向こう三軒両隣(いわゆる町内の組)は、新興住宅なのだけれどもそれでも50年来の付き合いなので、もちろんニュースのような危痴害はいない。でも、最近引っ越してきた若い家族が、慣れていないせいか、公共心が定着していないのか、路上に子供の自転車などが放置してあったりする。そうすると近所の年寄りがブーブー苦情を言いだして、それでも喧嘩沙汰にまでは発展しない。みんな少しずつ良識を持っているのだ。
週刊ポスト」に「現実のバカ」という連載がある。隔週で呉智英さんが執筆している。今週は「季違いじゃから」というお題で、それこそ「季違い」の一字違いをボンボンと連発する。ワシャは「危痴害」と言い換えているが、ストレートに書くと撥ねられてしまう。規制が掛かっているのである。呉さんは言う。
《「クレイジー」や「マッド」は何のおかまいもなしである。日本語はいけないが英語ならよいという恥ずべき欧米思想の表れであり、有色人種蔑視と根は同じものがある。》
 おっしゃるとおり。変な言葉狩りは止めたほうがいい。呉さんが連載の中で薦めておられたのが、小説家のきだみのるの作品群である。代表作は『気違い部落』という。これは映画にもなっている。ワシャは名作だと思ったけれど、今は題名で放送できないだろうなぁ。どちらの単語も規制語になっているから表立っての評論ができない、呉さんはそんな規制をしている国こそ危痴害だと言っている。国境を接する隣人も危痴害だし……。困ったものだ。