倉本さん

 学生の頃から倉本聰に注目していた。大ファンだったショーケンが主役の『前略おふくろ様』で倉本脚本にはまった。自分にとっては数多いる脚本家の中でもダントツの存在と言っていい。
 その人が「塾」を開く。そんな噂を耳にしたのは1983年頃だった。映画小僧には、ペリー来航くらいの衝撃ニュースだった。
 富良野塾構想が本格的に動き始めた時、すでにワシャは就職をしていた。仕事もおもしろく、収入も安定し、プライベートではスキーやウインドサーフィンに忙しかった。それでも半年くらい逡巡していたかなぁ。結果として、仕事を辞めて北海道に行くような勇気はなく、夢は日常の中に埋もれていった。
 富良野塾の1期生は北の原野ですべてをゼロから始めた。その苦労は倉本さんも大いに認めるところである。そのあたりは『谷は眠っていた』(理論社)に詳しい。年を重ね苦労を重ねて、2期、3期、4期と塾は充実していった。その時点で倉本さんはこう言っている。
「塾の四年をふりかえってみて、自分が唯一誇れることがある。それは、これまで関わった六十余人の若者たち全てを、まちがいなく自分が愛せたことである。その愛が今も続いていることを、自分の為に臆面もなく誇りたい。この道を諦めろと宣告したもの、卒塾を待たずに去っていったもの、去らせてしまったものも全てを含めて、この谷に住んだもの全ての若者を愛せたことに僕は感動する。」
 倉本さんの呼びかけに応じた若者たちに、すなおに拍手を贈りたい。君たちには勇気があった。そして倉本さんに愛されてよかったね。
 数年、富良野塾の話もいろいろなものが伝わってきた。その中に1期生、2期生の苦労談も混じっている。それを聞けば、根性のない若造にはとうていやり通せるレベルのものではなく、自分ならば、それこそ1ヶ月くらいでケツを割って、逃げ帰っていただろうことは想像に難くない。富良野塾の生半可ではない過酷さを知るにつれ、内心ホッとしている自分がそこにいた。
 それでも、倉本ドラマが好きで、『倉本聰コレクション』(全30巻)や『北の国から』シリーズや、数々のエッセイ集などを買い、むさぼるように読んだ。30代は、司馬遼太郎よりも倉本聰に強い影響を受けていたと言える。
 30代の半ばに、自己啓発のために通信講座を受けた。その時に1コーナーを受け持っておられたのが倉本聰さんだった。まことに微かなご縁ではあるが、このことをもって師とさせていただいている。(しつこいけどつづく・笑)