昨日、名古屋で

 昨日、名古屋で演劇集団「富良野GROUP」の公演があった。「屋根」
http://www.kuramotoso.jp/yane2016.html
である。脚本・演出は倉本聰。出演は富良野塾の卒業生で固められていた。
 物語は、大正10年から平成8年までの、富良野開拓農民夫婦の人生を描いている。倉本節がさく裂で、笑わせながら、さらに笑わせながら、深刻な現実を観客に突き付けていく。何度も吹き出しながら、ラストが近づくにつれて、会場のあちこちからすすり泣く声が聞こえはじめ、それがだんだん広がっていく。もちろんワシャも涙ぐんでいた。さすが名人倉本の手による劇である。通常の商業演劇とは一線を画す見事な出来栄えであった。公演に行ってよかった。心からそう思う。
 舞台は暗転しドラマは終わった。しかしカーテンコールが鳴り止まない。再び舞台に灯が入り、出演者が次々と登場し、観客に頭を下げる。会場となった名古屋市芸術創造センターは割れんばかりの拍手に包まれる。
 そして幕は下りた。まだカーテンコールは終わらない。再々度、舞台が明るくなり、出演者がずらりとならんであいさつをする。
 その時である。下手から丸顔のメガネをかけたオジサンが現われて、ひょいと列の端に加わった。
 倉本聰であった。
 少しは予想はしていた。が「まさか」という気持ちも強かった。しかし、ここに倉本聰はいた。

 倉本聰さんとの縁を述べたい。縁などというほどのものでもないですね。ただ一方的にその「存在を意識」していたくらいのニュアンスでしかない。
 1983年の夏。倉本さんが「富良野塾構想」を打ち出した。「人智への過信と傲慢を捨て、第一次産業的労働を通じて人間の原点に立ち戻り、知識より智恵を重視することで、地に足のついたシナリオライター、俳優を育てる。及び、それに類する若者を育てる。その拠点をこの地富良野に定める」という掟のもと、入塾生を全国から求めた。
 その時点で倉本聰の存在は知っていた。1975年の『前略おふくろ様』は名作だったし、1981年の『北の国から』はテレビドラマの金字塔をつくっていた。だから映画好き、ドラマ好き、シナリオ好きな若者たちの間では有名な、そしてあこがれの脚本家であった。
 その人が「シナリオライター」「俳優」「舞台関係スタッフ」養成の塾をつくると聴いたときは、「ついに来るものが来たか」という心境だった。今は亡くなってしまった悪友に、居酒屋で「富良野に行きたい」と告げ「アホか!」と言われ、大喧嘩になったものである。(つづく)