メディア・リテラシー

「梅は〜咲いたか〜」などと言っていたら、昨日のお昼にウグイスを聴いた。ワシャの町のサイクリングロード沿いである。林というほどのボリュームではないが、高木が密集しているところがあって、そこに差し掛かると、「ホーボケッキ」くらいの感じで鳴いていた。まだ「ホーホケキョ」まで上達していないんですね。

 さて、もう旧聞と言ってもいい話題だが、軽々とメディアの作為に誘導されないためにも記しておきたい。自民党丸山和也参議院議員の「失言問題」である。憲法審査会での丸山発言がレイシストだと批判された。
「今、アメリカは黒人が大統領になっているんですよ。黒人の血を引くね。これは奴隷ですよ。まさか、アメリカの建国当時の時代に、黒人奴隷がアメリカの大統領になるとは考えもしない」
 丸山議員は、全部で820文字を語った。その中の84文字が切り取られて、上記のように報道された。
 後日、丸山議員の発言の全文を読んでみれば、確かに言葉足らずで「例えば」を連発する下手な話者だったが「差別発言」とまでは言えなかった。でも、その人の発言の、ある一部だけを切り取れば、どういう方向にでも加工できるのである。真意などどうでもいい。メディアが人を陥れようとすることなど簡単なことなのだ。この作為がメディアの怖さであり、これに簡単に乗せられてしまう国会議員もいたし、普通の人々もいた。ワシャもテレビの報道を受けて「アホなやつだ……」と何の裏も取らずに、そう思ってしまった。そういった意味では蓮舫議員や東国原氏の軽率さを責められない。

 明治38年(1905)9月、アメリカのポーツマス日露戦争に終止符が打たれた。この講和条約を不服とした群衆が、日比谷公園に集結し、激烈な焼き打ち行動に走った。
 司馬さんが「この国のかたち」の中でこの愚挙に触れている。
《大群衆の叫びは、平和の値段が安すぎるというものであった。講和条約を破棄せよ、戦争を継続せよ、と叫んだ。「国民新聞」をのぞく各新聞はこぞってこの気分を煽り立てた。》
 日比谷焼討ち事件が、その後の日本凋落の引き金になったことはご案内のとおりである。国民の激情を煽りに煽った「朝日新聞」などは、その後40年のこの国の歴史に大きな負い目があると言ってもいい。なんでもかんでも煽ればいいというものではないのだ。
 メディアやマスコミは、いろいろなものを切り取らなければならない。新聞には紙面の制約があるし、テレビには時間の枠が存在する。その中に収めなければならないので、ある程度切り取ることも仕方がないだろう。だが、それが恣意的に過ぎるのである。「朝日新聞」の捏造報道や、「沖縄各紙」の偏向報道はその最たるものであろう。
 ではどうするか。これはやはり受け取る側がなるべく多くの情報を多方面から入手するにかぎる。なるべく事象を立体的に見る努力を怠ってはいけないということなのだろう。
 そのあたりは、日垣隆さんの『情報の「目利き」になる』(ちくま新書)が参考になる。あとがきにこうある。
メディア・リテラシーとは、広い意味で取材能力と表現力のことなのです」
 ワシャらもニュースに接する時、鵜呑みにしないように心掛けたいものだ。