北斗の人

《龍馬、「北辰一刀流」免許皆伝 「剣の達人」示す文書、記念館が確認》
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151014-00000102-san-cul
 このニュースを読んで「一本書けるわい」とほくそ笑んだ。それで、風呂に司馬遼太郎の『北斗の人』と『竜馬がゆく』を持ちこんで湯船につかりながら読んでいた。
竜馬がゆく』は解りやすい。小見出しがついているので「千葉道場」という小見出しのところを読めばいい。すぐに竜馬と北辰一刀流の関係が見えてくる。
『北斗の人』は、主人公が千葉周作である。薄っすらと竜馬が登場したことは、記憶のどこかに引っ掛かっていた。小見出しを追うのだが「龍馬」などという都合のいい章はない。そうしたら「挙母城下」などという章を見つけてしまった。「挙母」というのは豊田市の前の市名である。当時の関係者が下品だったのだろう。歴史ある挙母を捨てて、企業の名前を冠してしまった。ネーミングライツの走りなんですかね。
 最初の思惑とはずれつつも「挙母」という地名に引かれてそこから読みはじめた。まだ風呂の中である。運のいいことにそこから少し読んだら「竜馬」に辿り着いた。のぼせずに済んだ。
《この門から、ぞくぞくといわゆる志士が出た。まず、先覚的な日本統一主義者だった出羽の人清河八郎が出ている。(中略)さらに周作の晩年、その弟の貞吉を直師匠とした坂本竜馬など、この門の出身者は数えきれない。》
 この門というのは、千葉周作のお玉が池の道場のことである。巻末に近いここに、 竜馬の名前はチラッと登場するのみである。「これじゃあネタにならないな」と思いつつ読み進めていくうちに、ワシャは湯船で泣いていた。
 文庫本にして520ページもある長編の最後の2ページの、千葉周作の人生でも最後の時期の挿話がいい。
 520ページを費やして、北辰一刀流をひらいた千葉周作がいかに強くなったかを描いてきたわけである。その周作が死ぬ前年に最後の弟子をとる。名を春斎(しゅんさい)というさる大名の茶坊主である。その春斎が使いの途中の護持院ケ原で辻斬りにあった。
「御用の途中ゆえ、今、斬られるわけにはいかない。御用を済ませたら、必ず殺されに戻るから」
 と命乞いをすると、浪人は、主家の定紋を確認し、春斎の名を確認して、
「きっとまちがいないな。もし死を恐れて逃げたりすれば江戸中に噂を広めるぞ」
といって放した。
 茶坊主である。もちろん剣術などしたことはない。それでも見苦しい死に様はしたくないと思い、護持院ケ原にもどる前に周作を訪ねたのである。
 眉間に必死の色を浮かべる若者を見て、周作は秘策を与える。北辰一刀流の「夢想剣」である。そして茶坊主は太刀を持って護持院ケ原にもどり、腕に覚えのある浪人者と対決する。それを周作は弟子に見届けさせた。戻ってきた弟子はこう報告した。
「春斎の勝ちでございました」
 ここで涙が出た。これは「なるほど!」と思うほど見事な勝ちであり、周作や弟子たちが極めようと励んできた剣の道の、ある意味で否定にもなっている。巧みなり司馬遼太郎。詳しくはぜひ『北斗の人』をお読みくだされ。

 ここからは余談。
『北斗の人』は昭和40年に書かれている。その時期「挙母城下」を書くために、豊田市周辺を訪れている。それは司馬さんの絶筆となった『濃尾参州記』の「高月院」の章で、《私にとって三十年ちかい前の松平郷の印象は……》と書かれていることからも明らかである。
 それでね。何を言いたいかというと、どちらも文章を読んでも、司馬さんは豊田というところに好意を持っていないということである。三十年前の高月院には好意を寄せていた。しかし三十年後に書いた『濃尾参州記』の「高月院あたり」には嫌悪感を露わにしている。
 そして『北斗の人』である。挙母の城下で、千葉周作と対決することになる地元の剣豪は、驕慢な男で、かつ卑怯な剣客に描かれている。あんまり司馬さんは三河はお好きでないようですね。あそうか、家康も嫌いだしね(笑)。