歴史の石段で(2)

 ひととおり松平城の曲輪や土塁などを確認して砦から下りる。それから司馬さんが孤高の僧に例えた高月院に回る。
1965年に訪れた時、山の狭間にひっそりとたたずむ高月院を見て、文豪は戦国時代から変わらぬ日本の清らかな風景を喜んだ。しかし、『街道をゆく』シリーズで1995年に再訪した時は手厳しい。
《高月院に近づく道路の両脇には、映画のセットのような練り塀が建てられているのである。(中略)神社のそばには時代劇のセットめかしい建物がたてられ(中略)道路にそって「天下祭」と書かれた黄色い旗が、大売出しのように何本もひるがえっていた。高月院にのぼると、テープに吹き込まれた和讃が、パチンコ屋の軍艦マーチのように拡声器でがなりたてていた。》
 何事にも好意的な目を忘れない司馬さんが、お亡くなりになる少し前ということを考慮に入れても、かなり強い憤りを示された。この変貌を「ちかごろ妖怪のように日本の津々浦々を俗化させている“町おこし”という自治体の“正義”の仕業に違いない」と看破され「私の脳裏にある清らかな日本がまた一つ消えた」と付け加えておられる。
 確かに1965年ごろの松平郷、高月院の四辺は山懐に抱かれた清らかなところだったろう。運悪の悪いことに、平成に入ってまもなくつまらない県の補助事業で豊田市が昔ながらの松平郷をぶっこわしてしまった。その直後に司馬さんが再訪されたのだろう。まだ、練り塀も真新しく、大売出しもはなはだしく、和讃もそらぞらしかった。お亡くなりになられる直前だっただけに、静謐な高月院とひっそりとした散策路をご覧いただきたかったなぁ。
 さすがに豊田市もやり過ぎたと思ったか、あるいは行政としての松平ブームがすでに去ったか、土曜日はじつに静かだった。司馬さんの嫌った練り塀も、十数年の風雪にさらされ、それなりに汚れ、苔むして風景になじみ始めている。大売り出しの旗も今は1本立っているのみで、探さなければ見つからない。和讃ももう流れてはいなかった。行政によって造られたセンスのない遊歩道はともかく、高月院はやはり孤独な老僧の風情を醸していた。司馬さんが初回に見た青空を掃く高木の松は、50年の歳月に中で失われている。だが、高月院を囲むようにしてある山巓の樹林その背景の青空は健在だった。
 高月院の東に数枚の圃場が段々になっている。その脇で何本かの桜樹が淡いピンク色をみせているではないか。近くで観たい。そう思って、寺からの石段を登っていると、和風が谷のほうから上がってきた。少し汗ばんだ体に心地いい。こんな清々しい風は久しぶりだった。

 司馬さん、高月院のあたりだけはまだ捨てたものでもなかったですよ。すてきな風が吹いておりました。(つづく)