三田演説館

 話を作手から書き起こしたい。
 愛知県にお住いの方でないと「作手」と言われてもピンとこないだろう。愛知県にお住いの方でもピンときませんか(笑)。
 かつては南設楽郡作手村と言った。近年の合併で、新城市に合併され、住民自治単位の区となった。西三河の低地に住む住民からすると、作手高原と言ったほうがわかりやすい。
 戦国時代、その作手を奥平という一族が治めていた。何代目かに、この一族に貞能(さだよし)という食えない男が現われる。この男の運と力により、奥平家は10万石の大名に取り立てられ幕末まで続く。維新後も伯爵に叙せられ、現在も名家として残っているから、貞能が奥平家のためになした功績はきわめて大きい。
 本題から少し外れている。どうも貞能のことを話しだすと、止まらなくなってしまう。軌道を修正する。
 この奥平に福澤という家臣がいた。ご一統でも重臣でもない。戦国の終盤、奥平家が地域土豪から膨張していく過程で、奥三河南信州から家臣団をかき集めた。その中に福澤某がまぎれていたのである。某の子孫が慶応義塾創立者となる福澤諭吉であった。

 明治6年、諭吉は、九州の中津から東京の三田に先祖代々の墓を移している。その時に「福澤氏の先祖は信州福澤の人なり」と記念碑に書いていることからも、福澤家が信州の草深い山間から出てきたのは間違いない。信濃国福澤には諸説がある。しかし、奥三河との地縁から見て、下伊那郡松川町生田福沢あたりが本命ではないか。
 ともあれ、何らかの縁故をたどって半農半猟で暮らしを立てていた若者が、成長著しい奥平家に仕官する。そこで俸禄をはむわけだが、『福翁自伝』の冒頭にあるように《身分はヤット藩主に定式の謁見が出来るというのですから、足軽よりは数等宜しいけれども、士族中の下級、今日で言えばまず判任官の家でしょう。》後発家臣の福澤家は中津奥平の行政組織の末端に連なる下級士族でしかなかった。
 因みに「判任官」とは、明治憲法下でいうところの、最下級官吏のことである。何にせよ、福沢家は、諭吉が出るまでの260年間を、ずっと、中津藩の木端役人でしのいできたわけだ。
 諭吉には時代も幸いした。古いしがらみがすべて消え、諭吉のような「出る杭」の出る場所が開けた。
 安政5年、25歳で江戸に出て、鉄砲洲の中津藩邸内に蘭学の塾舎を構える。その後、慶応義塾を立ち上げて、教育者として大成していったことはご案内のとおりだ。

 明治31年刊行の『福澤全集』にこんな緒言ある。長いので要点だけをまとめる。
『門下生の小泉信吉が、アメリカで出版されたスピーチの本を余に示し、スピーチの重要性を説いた。これを受けて余は「会議弁」という訳書を刊行した。このときに「スピーチ」をどう訳したものか悩んだが、旧中津藩の文書に「演舌書」という書面があることを思い出し、「舌」では俗なので「説」の字を用いて「演説」と訳した。』
 そして諭吉は、この演説を一般にも広めるために、三田の慶応義塾内に演説館なるものを造ったのである。この三田演説館の開館式が挙行されたのが、明治8年の今日5月1日だった。
 この演説館から巣立っていった人物に、憲政の神様といわれた尾崎咢堂や5・15の犠牲者となった憂国の宰相犬養毅などがいる。
 この演説館、慶応大学三田キャンパスの正門を入ったところのすぐ左に、洋風建築にナマコ壁という奇抜な意匠で建っている。140年の風雪に耐え、今も健在なのがうれしい。