小さな命

 昨日、「殺処分」を免れたドーベルマンの話をした。しかし、この犬は極めて運のいい話であって、無責任な飼い主から捨てられたおおかたの犬猫は、年間(愛知県)3000匹くらいが小さな命を失っているということ。この悲劇は、ひとえに出来の悪い飼い主のせいであって、捨てるなら、はなから飼うなっちゅうの(怒)。小動物はオモチャじゃないんだ。飼いはじめたら、その動物が天寿を全うするまで面倒をみろよ。

 ずいぶん昔、大学の先輩が職場に立ち寄ってくれたときに、ワゴン車から小さな真っ白な子犬を出してきて、抱かされたことがあった。めちゃめちゃかわいかったなぁ。その先輩はに返そうとすると「その犬、僕が連れて行くと殺処分されちゃうんだ」と言う。先輩は、動物愛護センターで働いていた。その時、小さな命をいくつか引き取ってきて、センターに戻る途中だったのである。
 手の中に小さな温もりがある。少しふるえてもいる。それはおそらく先輩の作戦だったのだろう。
「命をひとつでも救いたい」
 先輩がそう思った時、アホ面のワルシャワを思い出したということだね。
 先輩の策にはまり、ワシャはそのはかない命を手放せなくなった。
 その犬は、その日からワルシャワ家に来て、「ゴン」と名づけられ、死ぬまでのんびりと暮らしたとさ。

 さて、こんなことがあったと思ってもらいたい。とある施設で、そこの利用者が施設の近くの公園で子猫を拾った。その人は、かわいそうだと思って、その施設の窓口に「そこにいたから連れてきた」と置いていってしまった。
 子猫をもらった施設のほうも困ってしまう。一応、従業員にあたってみたが、急に子猫が欲しい人もそうそういない。朝、窓口に届けられた子猫は夕方になっても車庫の隅の段ボールの中でニャーニャー鳴いている。終業後、その猫をどうするかで少し議論になった。女性社員のなかには「かわいそう」とべそをかいている人もいる。
 女性の係長は上司に「〇〇課長、猫を欲しがってましたよね?」とか、無茶ぶりをしてくる。みんなが困っていることは一目瞭然だった。
 ついに支店長は決断した。
「動物愛護センターに連絡しよう。そして適切に処理してもらおう」
 と、電話機を取るのだった。手の中の小さな命ははかない。しかしそれでも大切な命だ。なんとかしてやりたい。その気持ちは、そこにいた人間が誰しも思っていた。
 でも、命を持ち帰るということは、責任も一緒に持ち帰るということで、家族がいれば、その責任を家族にも押付けるということである。猫なら10年ほどだろうか、その間の面倒を見続けるということなのだ。
 残念ではあるが、動物愛護センターの手に委ねて、あとはその子猫の運に任せるしかない。素敵な飼い主が見つけてくれることを祈るしかないのである。

 腹立たしいのは、公園に子猫を捨てた元の飼い主である。おそらく飼っている猫が生んだんだろう。避妊手術しておけよ。あるいは捨てずに飼えよ。そもそもこいつが一番阿呆である。
 そして次に無責任なのは公園で拾っただけの人。自分で何とかできないのなら、そもそも手を出さない。「かわいそうねぇ」と思って拾ったなら、自分で飼う、自分で動物愛護センターに届ける、あるいは自分で警察の会計課に拾得物として届ける。
 手近な、どこぞの施設に「かわいそうだったから拾ってきた」と置いていく行為はいかにも人任せだ。自分は小さな命を救ったと思っているのかもしれないが、実はなにもしていない。余分なことをしただけで、迷惑を拡大したに過ぎない。かわいそうだが、自分に飼う気がないのなら手を出さない。「がんばって生きてね」と祈って、自己満足していてくれ。

 最近、ワシャの街にマンションが増え、サイクリングロードや公園で犬の散歩をする人が急増している。犬ですらそうなのだから、猫なんかはマンション中で飼われているのではないか。
 飼い主は、命であることを認識して大切に死ぬまで面倒をみる覚悟で飼ってほしいものだ。