蛙狩神事(かわずがりしんじ)

 コラムニストの勝谷誠彦さんが有料メルマガで憤っていた件
http://news.nifty.com/cs/domestic/societydetail/jcast-20150105-224563/1.htm
 諏訪大社で行われている「蛙狩神事」にいちゃもんをつけているバカの話である。
《「許すことのできない残虐行為」として抗議活動を行う》って相変わらず動物愛護原理主義者は進歩がない。
 勝谷さんの言を引く。
《犬猫系の団体はね、触ると激烈な反応をするんですよ。伝説の番組『ムーブ!』でもちょっとコメントしただけで猛烈な反発が来たものだ。まあね、私も犬や猫をひょっとすると人よりも愛している方々は、それはそういう人生を歩んでいけばいいですよ。しかし「動物」の範囲をどこまで拡大すれば気が済むのさ。とうとう、カエルまで来たか。》
 勝谷さんの発言に大いに同意するものである。そもそも生物は他の命をいただかなければ生きていけない。日本人はとくにそのことを強く意識して生きてきた。話が逸れるが、例えばクジラでも、日本人が捕獲すればすべての部位を無駄なく使わせていただき、その後、神にまで奉って感謝をする。油を採るためだけにクジラを殺戮しまくったアメリカ人やオーストラリア人に偉そうに言われたくはない。
 環境テロリストシーシェパードに代表される動物愛護原理主義者は、己たちの悪行には見向きもせず、日本の文化伝統に対して無理解というか、無知なのである。そもそも米豪に、あるいは米豪に染色されたポンツクに文化伝統を知れというほうが困難なことなのかもしれぬ。
 さて、少し「蛙狩神事」について説明しておこう。ワシャもよく知っているわけではないので、間違っていたらご寛恕くだされ。
 元旦である。諏訪大社上社、御手洗川神橋の神職が整列をする。この川に仕丁二人が入って神鍬という道具を使って川底を掘りかえす。蛙が出てくるとこれを捕まえて白木の三宝にのせて、参列者一同が拝殿にむかう。ここで弓と矢をもって蛙を射抜き、神前に捧げ祝詞をあげる。この蛙をもって「国家平安」と「五穀豊穣」を祈るのである。蛙はそのための贄ということである。
 ワシャは虫も殺せない男である。野に咲く花を手折ることもはばかられるほど気の小さい男だ。だから活け造りの刺身など食えない。しかし、切身の刺身は大好きだし肉類も食べる。それらは食卓に並ぶ前に必ず誰かが命をいただく手順を踏んでいるわけで、その場に立ち会っていないからといって、直接、手を下さないからといってそれに我々が関与していないということではない。執行者はは料理人であったり、屠場の人であったりする。だがそれは肉や魚を口にする我々の行為を代行をしているだけであって、命をいただくのは我々なのだという事実を忘れてはいけない。
 ビーフハンバーグを食い残すのと、蛙を崇高な神事に使うのと、命をいただくという行為に対してどれほどの差があるというのだろうか。
 あるいは動物愛護原理主義者は「俺たちはベジタリアンだ」と言うかも知れない。だけどさ、草木だって生き物でしょう。皆さん、屋久島の千年杉に命を感じませんか。身近な樹木に耳をつけてみれば、樹の中に水脈の流れる音が聴こえるでしょう。樹は生きています。それらが生きていて、畑のキャベツが生きていないわけがない。シイタケだって、ニンジンだって生きているんだ、ともだちなんだ〜♪

 原理主義者は文句を言うならば、畏敬の念をもって「蛙狩神事」を行う諏訪大社ではなく、まず百舌に言え。全国津々浦々で百舌の速贄でどれほどの蛙が犠牲になっていることか。おそらく万ではきくまい。それもだ、それを後々百舌が食料にするならばいい。でも忘れ去られて枯れ枝に突き刺さったままさらしものになっている蛙を目にしますよね。その残虐性は問わないのか。怒りをぶつけるなら蛙をもてあそぶ百舌にまず言え、暇人ども。