啓蟄

啓蟄や 坐禅見てゐし 鳥のあり」
 俳人の高島茂の句である。場所は臨済宗の寺と見た。陽気もよくなって、僧堂の障子を開いて坐禅をしているのだろう。庭の梢をひょいと見ると、スズメかメジロか、小さな鳥が堂を見下ろしている。あるいは石庭を見れば、そこで小鳥が小首をかしげて中を覗いていたのかもしれない。そんな景色なのだろう。
 しかし、坐禅をしている人としてはダメですな。「莫妄想(まくもうぞう)」の域に達していない。坐禅中の視点は、自分の前、三尺ほどのところに置くのである。真剣に坐禅を組んでいるなら、庭などに目が行かない。曹洞宗は壁に面して坐禅を組むので、それこそ壁の染みしか見えないのである。だから臨済宗の寺ではないかと言った。巡警の僧の目を盗んで、庭の春を楽しむ。そんなほのぼのとした句ではある。

 先日、「久米書店」のことを書いた。ゲストは俳人の堀本祐樹氏で、その折に壇蜜が一句認めた。
啓蟄に 出逢ったあの人 本の虫」
 これを堀本氏が添削すると、
啓蟄や 出逢いたる人 本の虫」
になる。前句は、いかにも壇蜜らしくていい。添削後は、いかにも俳句をやっている人の句になっているような気がする。ワシャ的には前句のほうが好きだな。「出逢った」が言葉として跳ねており、いかにも好きな人に逢ったという女性の喜びのようなものが出ている。
 堀本氏は「啓蟄や」の切れ字にしたほうが納まりがいいと言われるが、作者が壇蜜である。
啓蟄に 出逢ったあの人 本の虫」壇蜜
と、作者まで入れ込んでいただきたい。壇蜜が「啓蟄に出逢う」のである。この方が艶っぽいというか……それ以上は言いませんが(笑)。

 なにしろ啓蟄、地面に春の気配が萌しはじめている。