昨日の続き

 山本周五郎の最晩年については、弟子の早乙女貢さんも『わが師 山本周五郎』(第三文明社)の中にこう書き残している。
《加えて、心臓や肝臓の不調もある。不眠、食欲不振、それに消化不良からくる下痢なども重なり、体力そのものがますます衰弱していくのである。顔色も悪く、爪の色も紫色になっていたそうだ。》
 こんな状態になっても周五郎はペンを離さなかった。絶筆となった『おごそかな渇き』を苦悩しながら書き起こしていたとは、凄い……。
 早乙女さんは周五郎の最期を「凄絶な死」と表現されているが、己が志す仕事の最中に、つんのめるようにして死んだことは、小説を書き残しているので少し心残りだったのかもしれないけれど、それでも前のめりに死ぬこと自体は本望だったと思う。
 周五郎の友人に土岐雄三という人がいる。銀行員のかたわら何冊かの本を出している作家だった。その人が『山本周五郎からの手紙』(未来社)を編んでいる。その中に周五郎から土岐氏に宛てた手紙がある。それを引く。
《今日石井ふく子が来て話しに聞いたのだが、「ひどく痩せて顔色が悪かつた」といふ。》
 石井さんは土岐氏のことを言っている。
《それに糖尿がまだ残つているさうだが、この二つが事実だとすると要注意だと思ふ。》
 これは昭和36年の手紙で、土岐氏の体調を心配している。このころ周五郎は58歳なのだが、自身も体力の衰えを感じていた。このころから作品の数も目に見えて少なくなっている。人の心配をしている場合ではないのだろうけれども、そういった優しさも持っていた人なのだ。それは作品からもにじみ出ていて、多くの読者が共有していることだと思う。
 それにしても62歳8ヶ月の人生は短かった。うまく使ってもらって山本周五郎の作品をもっと残しておいて欲しかった。

 司馬さんも晩年は体力の要る長編小説を書かなかった。周五郎は『おごそかな渇き』という長編に着手して死期を早めてしまった。繰り返しになってしまうが、短編だけ書いていてくれればよかったのに……というのはわがままな読者のたわ言。