喧嘩の話

 喧嘩などというものは些細なことから始まる。配管工たちが新年会をしようと準備をしていて、おせちの量で口論となって同僚を刺したのだそうな。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141231-00000525-san-soci
 忘年会の準備をするのに酒を呑みながらやっていたようだ。忘年会で酒を呑むのだから準備段階で呑まなくてもよさそうなものだが、呑みたくなっちゃうんだよね(笑)。もめた二人はもともと反りが合わなかったのだろう。こういうのが呑んで口論になると収拾がつかない。「量が多い」「量が少ない」とやっているうちにエキサイトしてきて、「刺せるものなら刺してみろ」「じゃぁ刺してやる」となってしまった。

 倉本聰のエッセイだかシナリオにあった話。
 仲のいい夫婦が夕食をしていて口論になった。喧嘩の火種は夕食のときに出した尾頭付きの魚だった。妻は頭を左にして出した。しかし夫は右に頭が来ないと納得しないタイプだった。「右だ」「左よ」で大騒ぎになって、離婚の調停までもつれこんだかどうか記憶が定かではない。
 皆さんも心当たりはないですか。些細なことが原因となって引くに引けない大喧嘩となるということが……。 

 喧嘩つながりで、司馬遼太郎の短編「喧嘩草雲」について触れたい。こちらは喧嘩でもスケールが違う。
 主人公は幕末明治期の絵師田崎草雲である。書画会に自身の作品を出展するのだが、これにケチをつける輩があれば「なにをいいやがる」とばかりに相手の襟がみをつかみ、ねじ伏せてなぐりつけるという始末に終えない男だった。
 人並み以上の画才があり、武術にもそれなりに秀で、気魂は旺盛で時の尊王倒幕論に染まった。時期も時期ゆえに各藩の志士などとも交流をした。絵師なのか武士なのか志士なのか、おそらく草雲自身もよくわからなかったに違いない。
 そんな頃、柳橋万八楼で書画会を開催しているところに、佐幕派の侍と出くわし、喧嘩口論となった。草雲、腕が立つ。絵師ながら足軽侍だったので両刀を差していたのも災いした。幕臣をことごとく斬り伏せてしまった。書画会は大騒ぎとなり、このことでおそらく画壇からは永久に追放されるだろう、仲間の絵師たちはみんなそう思った。
 そのことをさすがに草雲も察し江戸を遠慮した。そして生まれ育った上野国足利にもどり隠居生活にはいった。これでおそらく草雲の人生は終わったといってもいいだろう。
 しかしなにが幸いするかはわからない。草雲は文久三年という時代がこの男の精神を救った。たまたま絵師仲間に梁川星巌の門人がいて、その男が草雲を勤皇の志士につなげた。幕末の怒涛の中、草雲の仕える足利藩はわずか一万一千石の小藩であり、倒幕にしろ佐幕にしろ風になびくススキのような存在でしかない。藩主はこの窮地を狂人の草雲にたくした。
 草雲、これによく応え、藩論を統一し、長州藩に倣い「誠心隊」を編成する。幕府瓦解とともにあちこちにおこった土匪どもをよく鎮圧し、足利藩を守りぬいた。司馬さんの文章を引く。
関八州の野で、これだけの銃器をそなえた軍隊はほかにない。草雲は馬で馳駆し、銃隊を指揮し、一斉射撃を号令したりしつつ、自分があたかも戦国武将であるような思いがした。》
 このことで草雲は人変わりをするのである。思いを遂げるというか、己を出し尽くしたとき、心中に鬱積していた執着のようなものが落ちたのだろう。引用を続ける。
《顔まで、かわった。険がとれ、おだやかになった。本来の草雲が、草雲のなかにやっと誕生したせいかもしれなかった。》
 こののち、画技も「明治の二天」と言われたそうだから、宮本武蔵の域にまで達していたのだろう。
 人生、なにが幸いするかはわからないが、少なくともおせちの多寡でないことだけは確かだ。

 田崎早雲の作品「寒江独釣図」はこちら。
http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/soun/soun-kaisai.html