極めて象徴的なエピソードがある。岸宣仁『財務官僚の出世と人事』(文春新書)のあとがきにある話だ。長いので少し要約をする。
《幼い頃から神童と騒がれ、小、中、高校で常にトップクラスの成績を収め……》
トップクラスではないよね。東大法学部に進んで財務省に入るくらいの記憶力はダントツのトップと言っていい。
《挫折を知らないエリート達にとって、同期生に先を越されるという現実は受け入れがたい屈辱と映り、毎年の定期異動の直後には「なんで、あいつが……」と、地団太を踏んで悔しがる愚痴の数々を聞かされたものだ。官僚人生の頂点を目前に次官コースを外れた人物が、同僚や記者の前で涙を見せた事例もいくつか聞いた。》
田舎の役場の話ではない。日本の将来の転轍機を握る霞ヶ関での話なのである。
次は事務次官と目された官僚が次官になれない理由は山ほどある。人事の狭間にはまる。前の次官に嫌われる。大臣と仲が悪い。与党の大物代議士にゴルフで圧勝してしまった……などなど。
しかしその処遇はそれほどの選択肢はない。一つは、次官に昇格せずに文部科学省や防衛省に出向するというもの。その場合は次にそこで次官に昇格する可能性は高い。もう一つは、局長のままで財務省の中に据え置かれる場合である。どちらにしても次官レースに敗れたほうは、血の涙を流すほどに悔しがるのだそうだ。
このことで岸さんは興味深いケースを紹介している。主計局次長から、防衛庁への出向を命じられた人物がいる。それは防衛庁事務次官を約束された人事だったのだが、送別会でこう言って泣いたそうな。
「関税局長でもいいから大蔵省に残りたかった」
別の件で、やはりトップを走ってきた別の官僚が次官に昇進せずに関税局長に並行異動となった。この人物は辞令を受けず、そのまま退官してしまった。
「関税局長なら結構です」
ということなのである。
トップエリートとはいえ、30年の官僚人生は、事務次官というひとつの椅子をかけての壮烈なバトルの連続と言っていい。
ただこれは、財務省だけの話ではなく、経済産業省にも法務省にも防衛省にある。鹿児島県にもあるし大阪市にも存在する。岐阜市にもあれば夕張市にもある。おそらく組織というものが避けて通れない宿命なのだろう。
今日も今日とて、権力争い、派閥争いが好きなお父さんたちは、痛む胃を押さえながら、東奔西走をしているのである(泣)。