生々流転

 横山大観の大作「生々流転」(しょうじょうるてん)
http://www.geocities.jp/qsshc/cpaint/seiseirutenmarquees.html
三重テレビが取り上げていた。「生々流転」という作品の話もしたいが、それよりも、ドラマの中に挿し挟まれていたエピソードに興味が向いた。
 大観が文展の審査員だった時のこと、審査員が合議で入選作を選んでいたところ、ある審査員から二席の作品にクレームがついた。
「その作者はかつて文展で入選したことがない。ゆえに三席が相当ではないか」
 その意見に対して、大観を除く審査員たちは「もっともだ」と納得をする。しかし大観はこれに対して猛然と反論をした。大観の主張は明快だった。
「我々が選ぶのは作品である。作者の経歴ではない。この作品は二席が妥当である」
 この態度を他の審査員は煙たがった。
 このエピソードを聴けば大方の人は、大観の言うことが正しいと思うだろう。しかし、文展という小さな村社会に閉じこもると、大観の主張は受け入れられないのである。過去に入賞経験のない作者が造った作品は一等価値が下がる、そういうことなのである。
 これをきっかけにして大観は文展の委員を辞している。当然であろう。そして大観はその後、大きな名声を博して世界の大観となっていく。大観と真反対の主張をした村社会の委員たちの名は寡聞にして知らない。おそらく歴史の塵の中に消えていったのだろう。

 司馬遼太郎のエピソードである。
 司馬は学徒動員で戦車兵になった。配属はソ連の南下に備える満州の戦車部隊である。ところが本土決戦の危機が高まり、司馬の所属する戦車部隊は国内に呼び戻され、北関東の佐野に配備された。ここからは司馬の言葉を引く。
《もし敵が上陸したとして「われわれが急ぎ南下する。そこへ東京都民が大八車に家財を積んで北へ逃げてくる。途中交通が混雑する。この場合はどうすればよろしいのでありますか」と質問すると、大本営からきた少佐参謀は「軍の作戦が先行する。国家のためである。轢っ殺してゆけ」と言った。》
 この少佐参謀の発言に若き司馬は反発を感じた。そもそも軍人は真っ先に死ぬために威張っていられるのだ。ところがみんなのために死ぬんではなくて、みんなのほうが先に死ぬ、それはおかしいという当たり前の感情を持った。
 普通の人々ならそうであろう。しかし、これも日本軍というか、参謀本部という小さなエリートだけの社会(自分たちだけがエリートだと思いこんでいる社会)では、当たり前ではなかった。国民を轢き殺してでも作戦遂行をせよ、というのが常識だった。

 今でのそれは変わらない。日本国を動かすエリート中のエリートといわれる財務官僚たちである。彼らが日本の中でももっとも優秀な一団であることは素直に認めよう。確かにいろいろな人の話を聴くと、入省間もないころの若手官僚は「国のグランドデザインを描きたい」とか「国民のために国家財政を立て直したい」など強い志を抱いている。それは間違いないのだが、財務省という村の中でひそひそと生き続けているうちに、それが窯変し、出世街道から落ちこぼれないように省益を最優先するようになる。
 財務省ではないが、経産省事務次官から辞表を迫られた古賀茂明さんも、大観や司馬と同様な立場だった。
 文展の審査員たち、日本陸軍の参謀たち、財務省経産省、どこにも二席を三席に落して良しとする人間は数多存在する。誰もが、自分は偉いんだと思った瞬間にバカになる。大観も司馬も「王様は裸だ」と言える理性と気概を持っていたに過ぎない。しかし実際に組織に組み込まれるとなかなかその理性やら気概やらが発揮できなくなる。経産省から追放された古賀さんを見れば一目瞭然である。それでもそちら側に魅力的な人物が多く、後世に名を残すことが多いのも事実だ。