司馬さんについて

 この日記は、ある意味でワシャの健康状態を反映している。二日酔いや気分が落ち込んでいる時などには、ちっともキーボードが捗らない。

 怒りが湧いてこないし、好奇心が散漫になっている。調子のいい時には、事件や発言にすばやく焦点を合わせることができ、いろんな資料を掘り出してきてサクサクと書けるんだけどなぁ。

 

 司馬さんのことでも書いておくか……。

 司馬遼太郎、本名は福田定一(ていいち)は頭がよかった。中学校に進んだ頃から読書に目覚め、学業より図書館に通うほうが楽しくなってきた。この時期の乱読の成果がその後の司馬作品に開花するわけだが、その代わり数学についてはからきしダメだった。このため大学をいくつも受験するのだが、数学の点数が悪く、ことごとく門前払いをくらう。唯一、大阪外国語専門学校の受験科目に数学がなかったので、そこを受けて入学した。蒙古語専攻だった。定一青年が18歳の時である。

 その年の12月に太平洋戦争が勃発し、日本は戦時体制に染められていく。それでも学生の徴兵は猶予されていたので20歳になるまでは大阪で学生生活を送っていたが、戦況悪化に伴い、その恩典が停止され、学徒動員ということになる。

 定一青年は兵庫県の戦車第19連隊に入隊し、そこで初年兵訓練を受け、5カ月後に満洲の四平にある戦車学校に配属される。

 これなんかも運というものであろう。おそらく戦車部隊に行かなければ、例えば飛行学校に回されれば、戦後の日本人は「司馬遼太郎」を失っていた。しかし、子供の頃から読書に勤しんだ定一青年は近眼であり、近眼では航空兵にはなれない。そして「史記」を読むことにより蒙古語に興味を持ったことも幸いした。兵の配置をする士官が、定一青年の履歴を見れば「こいつは蒙古語が話せるのか……だったら満洲だな」と思うに違いなく、事実、定一青年は大陸に行かされたのである。この時期に南方へ配置されていたら、おそらくどんくさい定一青年は、どこかのジャングルで屍になっていただろう。

 満洲で定一青年は戦車4台の指揮官(小隊長)となったが、後の司馬遼太郎を知るにつけ、この小隊の兵たちは心細かったに違いない。司馬さん、優し過ぎるんだもの。

 満洲の野で、訓練ばかりをしていた定一青年は、結果、戦闘をせずに日本に帰還している。実際にソ連軍と戦闘になっていれば戦死していたか、あるいはシベリアに抑留されて病死していたかもしれない。

 しかし天は定一青年を見放さなかった。本土決戦のために栃木県佐野の部隊に配属となり、ここで終戦を迎えている。もちろん本土決戦はなかったから、定一青年は無傷で復員することができた。

 お蔭で、日本人は「司馬文学」を得、構想の大きな「司馬史観」を体感することができた。

 亡くなられた英霊の中には、司馬遼太郎に匹敵するほどの才能があったのかもしれないが、残念ながらそれらは花開くことなく歴史の中に消えていってしまった。そういった意味からも戦争には大反対であることは言っておきたい。

 

追伸:5年前の今日、「決断」と題し「近々、大きな決断をすることになるかもしれない。」と、たったこればかりの文章がアップされている。ううむ、この時からいろいろなことを考えてきたんだろうなぁ。その決断をするのに4年余の歳月を経なければならなかったわけか。