未来を奪ったものの未来

 去年の10月10日の日記
http://d.hatena.ne.jp/warusyawa/20131010
に「三鷹のストーカー殺人事件」について書いた。倉本聰さんの姪ごさんの巻き込まれた事件である。その判決が昨日出た。才能の豊かなお嬢さんのすべての可能性を抹殺した卑劣な男に下された判決は「懲役22年」だった。
 懲役22年ですぞ。池永チャールストーマス被告は現在22歳だから、おそらく模範囚でつとめ上げれば40歳前には出所する。殺されたお嬢さんの未来は一片も残されなかったにも関わらず、人生の活動期を卑怯な犯罪者は娑婆でむかえられる。これはあまりにも理不尽ではないか。
 おそらく池永は「死刑」になっても本望だったろう。殺したいほど好きだった相手を、自らの手で葬り去ったのである。ある意味、彼岸には彼女がいて、「死刑」になることは池永の中では、彼岸にゆくことであり、また向こうで彼女を追いかけることができる。それは許してはいけない。だから「死刑」はなしだ。ただ、40歳前に出所するようなことも不当だと思う。22年程度の懲役では、まったく反省することはない。それでは18歳の命を奪われた女の子との釣り合いが取れぬ。
 ここでの判決は「無期懲役」しかない。だって日本には「終身刑」や「懲役100年」なんてものはないし「宮刑」というのも存在しないからね。

 もっとも安全であるはずの自宅に帰ってきて、自室に入ってくつろぐ。ふっと、クローゼットを見れば、庖丁をもったクズがそこに立っている。その時のお嬢さんの恐怖はいかばかりであろうか。
 身の毛がよだつような恐怖、そして追い回される戦慄、忌み嫌うけだものの手にかかって命が奪われる瞬間の悲しさ。ご両親や家族の喪失感、口惜しさも尋常ではない。これらすべてへの償いが22年でいいのだろうか。
 判決は言う。「被告は若く、まだ更生の余地がある」と……。そりゃどんな犯罪者だって、更生の可能性はあるでしょうよ。でもね、更生しない可能性もあるんだ。
 被害者の未来は加害者の手によって蹂躙されたのである。なぜ、犯罪者ばかりが未来を語れるのだろう。