三国干渉

 1895年の今日、日清戦争で得た遼東半島を、ロシア、ドイツ、フランスの三国の圧力により、清国に返還することとなった。
 高校教科書の「詳細世界史B」などでの「三国干渉」に関する記載は、あっさりとしている。
《南進の機会をねらっていたロシアはまず、下関条約で日本が遼東半島を獲得すると、フランスとドイツをさそって日本に圧力を加えこれを清に返還させ(三国干渉)、その代償として清から東清鉄道の敷設権をえた。》
 これだけである。ううむ、これでは歴史そのものを俯瞰することはできない。歴史は、その時点で突然に発生するわけではなく、そこに至るまでの長い過去のつながりがあって、その後もいろいろな影響を多方面に与えながら流れていくものなのである。また見る角度によっても歴史的風景はがらりと様変わりをする。ことほど左様に歴史というものは扱いにくい。
 この三国干渉なんかも国際的偽善ですな。清国のためとしながらも、清国で権益を拡張したい三国が自国の欲のために新興国日本の伸張を阻害したかっただけのことである。その証拠に、3年後、日本が清国に返還した遼東半島は、干渉で主導権を握っていたロシアが租借条約を結んで己の支配下に収めてしまった。
 ロシアの南下をおさえるために、あらためて日本がこの半島を奪取するのに、どれほど多くの日本兵の血が半島の土に吸われたことだろう。国際政治というものは、気をつけないと後になって大きなツケを背負わされることになる、という教科書のような事例が三国干渉だった。
 三国干渉を導くことになる日清戦争で、大国清はあまりにももろく敗退した。これがある意味で両国の悲劇となった。それまでの日本は支那文明に対して尊崇の気持ちが強かっただけに、その反動として軽侮の念が強く出ることとなる。それが昭和の時代にまで、長く尾を引く。
 司馬遼太郎は「中国文明は古代のほうが、先取的であり合理的であり、時代を下れば下るほど、文明として退化している」というようなことを言っていたが、まさに清国末期は、支那文明の末期的な様相を呈していた。欧米がひそかに恐れていた「眠れる獅子」ではなかったのである。このことを東洋の新興国がはからずも証明してしまった。
 その後、三国干渉を仕掛けてきたロシアと激突するわけだが、東洋の小さな国はこれにも勝ってしまう。この2連勝が驕りにつながり、日本を次なる戦いのステージへと誘うのである。また、そこでも支那中国と戦うのだが、日清戦争から50年にわたる抗争の歴史が、常に優勢だった日本の自信と、劣勢の支那中国の屈辱が、どちらとも負の記憶として次の世代に引き継がれてしまった。その結果が、昭和・平成の両国の軋轢状況を産んでいるといってもいい。
 今年は日清戦争120年の年である。現状を考えるとき、その時代くらいから極東の歴史を考えてみなければなにも見えてこない。ちょっと近代史を勉強し直そうと思っている。