日露戦争と蹲踞

 日本の若き選手団が、今、ロシアの地で激闘を続けている。まだメダルには届かないがソチでの頑張りを耳にして、ロシアと闘った日露戦争のことを思い出した。
 一応、昨今の「天声人語」をまねてムリムリの展開をしてみました(笑)。

 今朝の「天声人語」もひどい。東京都知事選の総括のようなコラムなのだが、おそらく敗北した側ならそう言うだろう、という内容から逸脱できていない。ワシャの文章の師匠は「3つ以上の組み合わせのないコラムはおもしろくない」と常々言っておられた。まさに今朝のコラムは「東京都知事選」だけがネタであって、それも選挙分析にすぎない文章の羅列ではおもしろいわけがない。
 駄コラムの相手をしていると時間がもったいないのでもう止めた。

 さて、なんで冒頭に日露戦争を持ち出したかというと、1904年2月10日に日本はロシアに対して宣戦布告をした記念日なのである。あれからすでに110年が経過するんだね。
 1800年代の後半、欧米列強はアフリカ、南アジア、東南アジアを喰い尽くし、最後に残った東アジアにその触手を伸ばしていた。
 まず、政権の根太が腐り、まともな政治家・軍人を擁していなかった清国がその草刈り場になった。その属国であった朝鮮も同様な道をたどる。その両国の東の海上に浮かんでいる小さな島国も、列強の餌食になるはずだったのだが、これは手前味噌ではなく、この島に住む民族の底力はすごかった。清国と同じように、侵略の危機、国家存亡の切所にあったのだが、体制をごっそりと換えることで乗り切ってしまったのだ。もちろん前途有為の若者の血が多く流れたが、ついに日本は植民地とならずに、わずか25年で欧米列強に伍するいたる。もちろん清国も手をこまねいていたわけではない。西大后という希代の悪女が奔走し、軍備を拡張していたのだ。傷ついて眠っているとはいえ獅子である。帝国主義リーグに加わるために日本は、牝鶏に飼われている獅子と予選リーグを戦う。これが日清戦争である。これにはあっさりと日本が勝つ。巨大な猛獣と見えたのは、病める肥豚だった。その後、清国が弱体したのを確認して、ロシアが満洲に軍隊を進駐してくる。満州の権益を手中に収めようとすることと、南に領土を拡大する目論見である。ここに日本とロシアとの間に二次予選が始まる。日本は国家の総力を投入して、ようやくのこと辛勝をする。このあたりの歴史を細かく検証すると、「韓国併合」が単純な図式で成立したものではないということが見えてくる。おそらく日本がこの状況を傍観していたら、朝鮮半島はロシア領になっていたことは間違いない。

 突然ですが、ワシャんちの小さな庭には蹲踞(つくばい)がある。ワシャの母親が、ずいぶん昔にお茶にこっている時に造作したものである。おかげでワシャも蹲踞好きになってしもうた。うちの庭の蹲踞は、お約束どおりの手水鉢、鉢灯りの燈篭、筧、水門、手燭石、湯桶石、前石が配置され、手前に飛び石が配されている。座敷に寝転んでその方向を見ると、それなりの庭に見えるからおもしろい。
 だから、いろいろなところへ出かけると、ついつい蹲踞を見てしまう。京都にもいい蹲踞がそれこそあちこちにあるけれど、中でも好きなのは、左京区にある無鄰菴(むりんあん)の蹲踞だ。京都動物園の南、琵琶湖疏水をはさんだ反対側の道路に面している。庭もいいけれど、蹲踞もいいですぞ。竹縁からすぐのところにずんぐりとした御影の蹲踞が座っている。また、庭のあちこちに蹲踞がひそんでいたりして、とても素敵なところなのでお薦めしたい。
 同じ作者の蹲踞が、東京の椿山荘にもある。以前、フォーシーズンズホテルに立ち寄ったとき、庭園の冠木門の近くに臼のような手水鉢が配された蹲踞を見た。これもおもしろい意匠だと思ったものである。
 この二つの庭、蹲踞を造ったのが、明治の元老山県有朋だった。彼は、同世代の政治家、活動家の中でも評判が芳しくない。嫌われた人物だった。司馬遼太郎もそうであったし、多くの作家も彼をあまり好意的に書いてはいない。時に政権欲に駆られたり、権威を悪用さえしたりした。はなはだ独りよがりで、公的に孤立していたようである。野に一本立つクセの強い老木のような人であった。
 しかし、日露戦争では67歳にも関わらず、参謀総長兵站総監として活躍をする。その是非はいろいろあるが、少なくとも日露戦争は勝っているし、おそらく政府の中枢に山県がいなければ、軍はまとまりを欠いていたことは想像に難くない。山県は日露交渉のテーブルにもついている。蹲踞造りの名人はこの人なりに日本の行く末を設計しつつ政治に関わっていたのだ思う。

 日露戦争以降の歴史を考えるとき、今の支那中国、朝鮮がいうような単純な展開であるなら、歴史を学ぶものとしては楽でいいけれど、そうではないのだ。日露戦争にいたる状況ですら、極東はもとより、ロシア、イギリス、フランス、アメリカなどの諸国が複雑に絡まってくる。歴史は一本の糸ではなく、複雑に絡み合った蜿蜒(えんえん)としたものなのだ。軽々に歴史は語れない。そのことを各々が自覚すべきだと思う。