新書を読んで墓参り

 昨日、新書を2冊読んだ。
小池龍之介『しない生活』(幻冬舎新書
枡野俊明『日本人はなぜ美しいのか』(幻冬舎新書
である。
 これがなかなかおもしろく、ちょいとはまってしまった。ちょうどワシャの現状にフィットしたということなんでしょうね(にっこり)。

 ワシャは日記の中でいろいろと怒ってきたしぼやいてきた。そんなことを10年も続けてきたわけだ。自分ではけっこう冷静に書いてきたつもりだし、自分のためにもなっていると思っていたが、それがそうでもなかったことを上記の2冊の本から知らされた。

 小池さんは言う。
「正義は妄想である」
「正義感は煩悩である」
「正義感をふりかざしても怒っても醜悪な小悪人になるだけ」
 現代社会がいかにこの正義感という風潮に流されているだろうか。ちょっとしたミスを嗅ぎ付け、クレームという形でこれでもかと叩き続ける人々の多いこと。小さな「悪」に激烈な口撃をすることで「正義の使者」になったつもりになっている心貧しき者、もちろんワシャも含めて……。この本を読んでいて、そうはなりたくないと思ったのである。
 いろいろ書くに際して、なるべく抑制的な姿勢を保ってきたつもりだ。でもね、朝の短い時間にあわてて書いているということもあってつい筆がすべっていることもあった。だから日記でも実生活でも怒るのをやめた。
 ちなみに、冒頭の文章の中に出てくる(にっこり)も小池さんの文章から真似をした。(笑)よりも柔らかい感じがいい。

 
 枡野さんはこう言う。
「ものへの執着、物欲にはかぎりがない」
「執着は苦悩である」
「さまざまな苦悩から抜け出そうとするならば、足るということを知れ」
 今あるもので、今の状況で、充分ありがたいと思って生きれば、それだけで心は安らかで豊かになるということらしい。
「あるべきものが、あるべきところで、あるべきように、ある」
 つまり、あなたは、あなたらしく、あなたに与えられた状況で、あなたのできることを感謝しながら生きていけばいい、ワシャにはそう聴こえた。
多くの物を欲し、人より高い評価を望む、そういった「多欲不知足」が心を蝕んでいくとブッダは言っている。だから、その逆の「小欲知足」の教えを実践しよう、そう思っている。
 これは前回の地元読書会の課題図書『禅と日本文化』に通底するものだと思う。

 実は、夕方、墓参に行ってきた。特段、なにかあったわけではないが、上記の2冊を読んで、少し森厳とした場所に身を置きたくなったのである。
ワルシャワ家の墓は市街地の外にあって、歩けばけっこう遠い。でも車も使わず自転車にも乗らず、歩いていった。枡野さんの本に「行住坐臥」という言葉があったからである。歩く、とどまる、座る、臥す、ありとあらゆるふるまいが修行だと言う。ワシャもまさにそのとおりだと思って「歩く」ことにした。
 歩けば、春に気がついた。圃場の畔に、野辺に、花花花花。遠目には雑草の緑しか見えなかったが、近くで目を凝らすと、小さな花がいたるところに咲いている。土筆だって食べきれないほど生えているではないか。春がこれほどまでにほとばしっていたのかと驚いた。桜ばかり見上げていては見えないものがある。そんなことに久しぶりに気づかされた。