乞食の話

 新潮社のPR誌『波』今月号に掲載されている曽野綾子さんの連載がいい。「人間の義務について」と題されたエッセイは6回を数え、今回は「弱者」と「強者」、「助けてもらう側」と「助ける側」について論考されている。

 この中で、曽野さんは「乞食」について触れている。

《私の子供の頃、東京にはごく普通に「乞食」がいたのだ。「乞食は差別語だから使ってはいけないのよ」などという人もいる。しかし私は表現者として、歴史的な義務があると思っている。「乞食」という言葉さえ使わなければ、乞食をしている人がいる社会状態もないように思っていられるなら、こんな簡単なことはない。》

 曽野さんは、乞食を貶めて言っているのではなく、乞食も当時は「立派に職業人として扱われていた」ことを指摘される。いつの時期からか社会が「乞食が差別を受けるべき仕事」として判断を下し、そこから乞食について語ることはタブーになった。

 乞食は、「乞食」ではなく「社会的弱者」と言い換えられたのだが、曽野さんはその「弱者」さえ、時として「強者」を救う存在になり、「助けてもらう立場」と「助ける側」は刻々と移ろい違ってくるのだという。

 詳細は、今月の『波』にある。書店に行けば無料でいただける。そういった意味から言えば、ワシャは『波』を新潮社、書店から恵んでもらったわけだ。お恵みを~おありがとうございま~す。

 ぜひ、曽野さんの慧眼に触れたい方は書店へ走られよ。

 

 凄惨な事件が頻発している。「京都アニメーション」の放火殺人事件である。なんの罪もない若者たちが、たったひとりのクズのために、これから何十年にもわたって社会に貢献したであろう大切な命を奪い去られた。これほど理不尽なことがあろうか。クズの青葉某は、バカなだけでなく、無意味な自己顕示欲も強かった。はっきり言おう。この手のバカが間違いなく増殖している。

 2か月前に川崎市登戸で通学時の子供や父兄を襲撃した危痴害がいたよね。この男は、働きもせず伯父の家に引きこもっていた。生活の面倒なども伯父夫婦が賄っていたようだから、この男、乞食と言っていい。

 今回の青葉某も働きもせずに無収入だったようだから、どうやって食っていたのかは知らないけれど、何らかの施しを受けて生きていたのだから、乞食なのだろう。

 

 そこで曽野さんの指摘に戻るが、リアリストの曽野さんに言わせれば、かつての乞食は《お父さんかお母さんが毎日乞食をしに行って、その日家族が食料を買うお金をもらって来るという家庭も戦前にはあったのだ。これは職業以外の何ものでもないではないか。》ということなのだ。

 また、キリスト教の神父たちが、寄付を集める時には「これから乞食に行きます」と言うこともあった。仏教では「乞食(こつじき)」とは、人家の門に立ち、食を乞い托鉢をする、まさに乞食の行為のことを指す。

 いいですか、何を言いたいのかというと、どの乞食であろうと「労働」をしている。駅前に座し「みぎやひだりの~だんなさま~」と憐れを乞うて小銭を集めるのも、立派な労働なのである。

 しかし、川崎登戸の男も、今回の青葉某も、何らかの労働をしていたのだろうか。青葉某はまだ詳細情報が出ていないけれど、川崎の某と同様に働いてはいなかったのではないか。働かずに妄想ばかりを膨らませて、凶行に至ったに違いない。

 十把一絡げにしてはいけないだろうが、川崎の某も、青葉某も、明らかに変なヤツだった。社会生活の営めないヤツが危ない……そう言うと、人権派のパープーが顔を引き攣らせて大声を上げるが、本当にそういうのが危ないのである。

 市役所の窓口でも大声が出たり、あるいは警察が頻繁に呼ばれる部署は、ある特定の場所なのだ。

 差別はいけない。しかし、普通の人間がこういった惨劇に巻き込まれないためには、ある一定の連中には注意をするべきではないだろうか。

「ある一定の乞食」というのは、ちゃんと働いている乞食のことではないので念のため。

 

 かつて、ワシャの町の駅前にも乞食がいた。幼かったワシャは、駅前でずっと座り続けるボロボロの老人に興味津々で、家の人間は「近づくな!」といつも言っていたが、好奇心旺盛なワシャは機会をみて、おそるおそる声を掛けたことがあった。ボサボサの髪と髭の隙間からのぞく黄色い目は、それでも優しそうな目だったなぁ。う~ん、達観したような目とでも言うのだろうか、寂しそうな目とでも言うのか。でもね、どちらにしても凶暴な目ではなかった。それでも、骸骨のような手で「あっちへいけ」と追い払われたけどね。でも、それって子供のワシャが、仕事の邪魔をしたからに他ならない。

 曽野さんの本を何冊か調べてみた。『この世の偽善』(PHP研究所)の中にこんなフレーズがあった。

《本当に貧困な人とは、ただ一つ、今晩食べる物の工面がまったくできない人を指すんです。その場合、人間は三つの解決方法しか持っていない。水だけを飲んで寝る、乞食をする、盗む、のいずれかです。乞食はいまの日本にはいない。でも人間の営みとしては、乞食はれっきとした「仕事」です。インドでは乞食はしばしば世襲の職業と思われ、イタリアでも乞食は「物乞いという仕事」を働いているという解釈です。乞食を差別して、乞食と言ってはいけない、書いてはいけないというのは日本のテレビ局や大新聞だけの「虚偽的人道主義」です。》

 乞食があふれていたあの頃、乞食が殺人事件を起こしたなんて話は聞いたことがない。

 今は、乞食以下の生き物(なまけもの)が、権利を振りかざして威張り散らしている。今回の青葉某もアパート周辺の隣人に大きな声を張り上げて憚らなかったようだ。食いものひとつをテメーの手で得られない中途半端な人間が、なぜそんなに偉そうにできるのか理解できない。