莫妄想(まくもうそう)

 万巻の書に当たった哲学者よりも、野辺の石仏に手を合わせるだけの老婆のほうが死に逝くのに安らかなのかもしれない。
 スリランカ仏教のスマナサーラ長老は「モノに執着するな」と言われる。モノに執着すると、生命のエネルギーを漏電させてしまう。「死」を恐れるのも同様である。相手への執着、自己への執着が、「死」を非常な苦しみとしている。

 昨日、天気がよかったので隣町の書店まで自転車で走っていった。そこで、アルボムッレ・スマナサーラ『執着しないこと』(中経出版)をはじめ、小池龍之介『考えない練習』(小学館)、ひろさちや『死に方上手』(ビジネス社)などを宗教コーナーであさる。みんな宗教家、宗教研究家の本である。なんでそんな本ばっかり買うのかというと、実は、今週、読書会があって、その課題図書が昨日の日記にも書いた『禅と日本文化』なのである。課題図書の周辺の知識を固めておきたかったこともあるし、『禅と日本文化』の中に出てくる「いっさいの妄念思慮を断ち切れ」を解読しておきたかった。これについては3巻とも共通する解が出ている。「妄念思慮」については「莫妄想」つまり「考えてもわからないことは考えるな」ということだった。なるほど。
 でもね、読めば読むほど、知識で「執着しないこと」や「考えないこと」を知ろうとしても、凡夫は「執着しないこと」や「考えないこと」を妄想してしまうんですね(笑)。
なんの執着ももたず、人生を目的のない旅のように割り切って、ゆったりと歩いて行く無学な老婆のほうが仏性のステージが高く、悟りの境地に近い。
 頭で「禅」を理解しようとしてもダメなのである。それは直覚的な理解の方法によってのみ達成されるものなのだ。どの本もみんなそう言っている。と言われても……。